信仰の完成とは完全になることではない。どうなることが完成なのか?

信仰の完成とは一体何を指しているのでしょうか?
私たちが陥りやすい誤りは、信仰が完全になるのが完成であると誤解することです。
それで今日は、救いの完成とは何であって、何でないのかを明らかにしていきます。

        

1.救いの完成とは完全になることではない

信仰の完成

①救いの完成は人間として完成されることではない

人間的完全を目指して悪戦苦闘するのは、ありのパパぐらいかと思っていたのですが、周りを見渡すとそうでもないようです。
人間的完全を目指すということ自体が、その人が本当には悔い改めていないということを示しています。
なぜなら救いの信仰とは自分の力では決してそこに到達できないことを認めた人が信じる信仰だからです。
そうであるにもかかわらず信じたあとに完全を目指すというのもおかしな話です。

しかし初代教会のエルサレム教会の人々も律法による救いの道を捨てることが出来ず、結局救いからこぼれてしまったことを考えると、これが人間の本質であるのかもしれません。

②救いの完成とはキリスト者としての完全を意味していない

キリスト者の完全とは一体何を指しているのでしょうか?
ウェスレーは「それはいつも喜び、絶えず祈り、全てのことについて感謝している状態である」と言いました。
これは一見聖書的で美しく描写されているので、そんなに素晴らしいなら私も求めてみようかと思います。

しかしこの道を歩んでみると分かることですが、この道は常に自分を責める道です。
なぜかというと、どれだけ聖霊に満たされても、この目標が永続的に実現されることはないからです。
上がったり下がったりの連続だというのが、人間の現実の姿ではないでしょうか?

それで常に自分を責めるようになりますし、出来ているときは出来ていない人を裁くようになります。
ありのパパも裁きました。
裁いてはいけないと思うのですが、つい裁いてしまうのです。
その当時はなぜ裁くのか理由がわかりませんでしたが、今はわかります。
「約束は命令でもある」というウェスレアン神学の常套句がありますが、その命令を守っていない人を裁いてしまうのはある意味では仕方のないことです。
しかし自分もまた守れていない時があるのですから、何をか言わんやということではあります。

では救いの完成とは、何を意味しているのでしょうか?

        

2.救いの完成とは天に移されるときまで信仰を保ち続けること

①信仰を全うすること

信仰を全うするとは、信じたときの心の状態を死に至るまで維持し続けることです。

a.自分では自分をどうすることも出来ないことを認め、

b.神にならこんな自分を救うことが出来ると信じ、

c.自分の意志と生き方を神に委ねることを決心することです。

この三つを死に至るまで実践し続けるのです。
「なんだ。簡単じゃん」と皆さんは仰るでしょうか?
ありのパパはなかなか難しく感じています。

なぜなら、うまく行くと心の中で「私もたいしたもんではないか」と思い、自分の無力を認めなくなるからです。
しかし、神さまが自分を通して働いてくださり、それを自分は脇から「ヘェ~、凄いもんやな」と驚嘆している生き方の方が生きやすい人生であることが段々と理解できつつあります。

②信仰の働きを全うする

信仰の働きとは、自分の家族に重荷を背負わなければならない人がいるような場合、その人の面倒を見るということも含まれます。
ある人は兄弟がアルコール依存症であり、ある人は姉妹が統合失調症であったりします。

人に知られなくても神様と私が知っていればそれで良いのです。
どんな人にも一生背負わなければならない重荷があるのではないでしょうか?
嫌々背負わされたものであっても、自分から進んで背負ったものであっても、それを信仰の働きとして全うすることです。

③宣教の働きを全うすること

神はクリスチャンに救いの御言葉、すなわち宣教の業を委ねられました。
希望なく死ぬほかなかった人々に私たちが救いの御言葉をお伝えするのです。
そのことによって神の愛が地上に実現します。

神の愛が実現するために私たちクリスチャンは不可欠の存在です。
これは神がお決めになったことです。
愛は思念の中にだけ存在するものではなく、犠牲を払う捨て身の生き方の中にこそ存在するものです。

        

3.救いの完成とは御霊の実に満ちた信仰者となること

①喜びと平安に溢れた信仰者となる

「1.では否定しておきながら、ここでは勧めるのですか?」と言わないでください。
そうではありません。
「自分自身」が変わることによって完全な人になろうとするなら、その道は苦しみの道です。

しかし今申し上げていることは、そういうことではありません。
「(救われるために)私は変わらなくてよい」ということを本当に理解できたとき、自然と喜びに溢れた信仰者となってしまうのです。
努力はいりません。
ただ薄皮を一枚一枚剥(は)がしていくように、自己の無力を認めたくないという本音の自分を見いだしていくことです。
その薄皮が剥がれていくごとに喜びが溢れてくるのを感じるようになります。

②周りの人々を配慮できる信仰者となる

子供が勉強しないと怒るお母さんは勉強する困難さを知らないのです。
しかし自分自身がよく勉強するお母さんは勉強することの困難さもよく知っていますから、子供に対しても「あなたが勉強したくない、その気持ち、お母さん、わかるわ」と言います。
こんな温かな愛に満ちた言葉をかけられたら、どんな子供でも勉強机にかじりつくのではないでしょうか?(笑)

信仰も同じです。
自分がどんなに傲慢な者かを本当に知っている人は周りの人々に対して寛容です。
間違っても裁いたりしません。
裁くのは自力・我力で生きている証拠です。

『神に仕える人であるあなたは、これらのことを避け、神の御前に正しくあること、神を恐れること、信仰、愛、忍耐、柔和を熱心に求めなさい。信仰の戦いを立派に戦い抜いて救いの完成に至りなさい』[Ⅰテモテ6:11,12](現代訳聖書)

◎平安と祝福を祈っています。

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