なぜ教会の指導者が悪魔的と言わなければならないようなことを信徒に行うのか、その理由を探り、そうならないためにはどうしたら良いかを考えます。
1.カリスマ的な権威を認めない
説教壇からいくら聖書的な教えが語られているとしても、それだけでは安全であるということは出来ません。
たとえばカリスマ的な魅力に溢れる説教者が「みんなは平等であり、上下の差はない」と言ったとしても、教会員の心の中に説教者に対する恐れがあるなら何の意味もありません。
かえって教えが煙幕の役割を果たしてしまい、本当の姿が外部に明らかになりにくいということになりかねません。
私たちは、その人が何を教えているかではなく、どんなことを教会員にしているかに注目しなければなりません。
そのためにも役員会・長老会・信徒総会などの教会の制度がきちんと機能するようにしなければなりせん。
どのようにカリスマ的な説教者であったとしても不祥事が明らかになった時点で役員会が罷免できるようでなければなりません。
クリスチャンの人権意識と、教会に対する認識が変わる必要があります。
2.超教派で監視する必要がある
以前、超教派で「カルト監視機構」の立ち上げの話が持ち上がったとき、意外なグループから反対の声が起きました。
それはカルト監視機構は秘密警察ではないかという妄想がかった反対意見でした。
いつもは自分を棚の上にあげて、お気楽に他の教会を批判することを楽しんでいるように見える人たちが、その時だけはなぜか度を越して真剣に反対意見を述べておられることに違和感を感じました。
今から思うとカルト監視機構が発足すると自分たちが内部で密にやっている悪事がばれるのを恐れたのではないかと推測します。
神の御前で罪を犯していないなら、カルト監視機構が出来ても少しも恐れる必要はないのです。
教会は天国そのものではなく、救われた罪人によって構成される団体です。
どんな説教者であっても、カルト化の罪に陥る危険はあります。
これを防ぐためにも香川県のプロテスタント教会が行ったような信徒の相談窓口を全国的な規模で作る必要があります。
教団単位ではなぜいけないかと言うと、神に従うことよりも牧師の仲間意識が優先してしまうからです。
実際、聖公会でもそうでしたし、日本基督教団でも正常に機能していません。
ですからどうしても超教派で組織する必要があります。
3.教会指導者がカルト化する原因
そもそもなぜ説教者がこのような罪に陥るのかを考えてみますと、やはり癒されていない傷がそのまま残っており、自分がされたことを教会のメンバーにそのまま仕返しているということだと思います。
聖書には『満ち足りた心を伴う神信仰』[Ⅰテモテ6:6](現代訳聖書)と書かれています。
文語訳聖書では『足ることを知りて敬虔を守る者は、大きな利益を得る』とあります。
これはどんなに敬虔な信仰であっても、満ち足りた心が伴っていなければ有益なものとはならないということを言っているのです。
多くのクリスチャンが、口では「相手を赦します」と言い、また実際赦そうとします。
しかしその時、心の中で何が起きているかというと、実は赦せない心を抑圧しているのです。
心の中にあるものを、理屈をこねまわして、ないものにしてしまうのです。
結局それでどうなるかといえば、抑圧された怒りのゆえに、自分でもコントロール不可能な怒りを自分自身に向けたり、他者に向けたりするようになります。
それで何かトラブルが起きるたびに、正直に自分に向き合うことを避け、人のせいにしてみたり、自分は関係ないと誤魔化したりすることになります。
これが案外クリスチャンの現実ではないでしょうか?
本当に赦そうと思うなら、赦す振りをすることを止め、自分自身では決して赦せないことを認める必要があります。
その時はじめて神の力が私たちの上に及ぶようになります。
神の赦しが満ちている心こそ、満ち足りた心であるのです。
赦す振りと本当に赦すことについて詳しくお知りになりたい方は赦すふりから本当の赦しに変化するためにをお読みください。
健全な信仰者として成長していくためには、どうしても心の満足というものが必要です。
それなしには、カルト的な信仰や、人々を傷つけてしまう信仰者になってしまう危険があるのです。
◎平安と祝福を祈っています。
ありのパパさん、おはようございます。
毎日、パソコンのスイッチを入れると最初にパパさんのブログを拝見しています。
いつも有益で興味深い話題を提供してくださり、ありがとうございます。
今朝のパパさんの主張には全く同感です。
大所帯の日本基督教団においても、九州の某教会のセクハラ事件を適正に処理することができませんでした。
歴史のある聖公会においてもそういう実例があることは聞いています。
不祥事は教団の規模や伝統のあるなしには関係がないのだな、と痛感しています。
パパさんのような危機意識をキリスト教界全体で考え、具体的な対応と組織的な取り組みをすることが今、求められているのではないかと思います。
パパさんたちのブログのような草の根運動が積もって、いつの日にかそのような取り組みが具体化することを祈っています。
明日はクリスマス礼拝です。
寒い季節になりましたが、心の中は暖かくして主の御降誕を祝いましょう。
パパさんと、パパさんの教会の上に主の祝福を祈ります。
ヒラぴゃんさん、こんにちは。
コメントありがとうございます。
教会を復興させようとする働きの中で、ひどい人権侵害が行われていたようです。
インターネットの発達によって、被害者が、自身が受けた被害を明らかにすることが出来るようになりました。
今回の件を通して教えられたことは、正義漢を気取る人たちの裏の顔のすさまじさです。
あたかも社会主義諸国が、資本主義諸国を痛烈に批判しながら、自分の国では目をそむけるような人権侵害を行っていたのと通じるものがあると思います。
今年のクリスマスを契機として、我が国のキリスト教会が人権を尊重するという当たり前のことを、守り行う教会へと変わりますようにと祈ります。
あすはクリスマス聖日の礼拝ですね。
ヒラぴゃんさんと、ご家族のうえに神様の豊かな平安と祝福がありますように。
ありのパパさんこんにちは。
いつも、おもしろいというか、是非知りたいと思わせる話題提供をありがとうございます。
ところで今回の話題なんですが、あ~ここここって言う部分があっさり終わってしまったので、不完全燃焼しました。
>本当に赦そうと思うなら、赦す振りをすることを止め、
>自分自身では決して赦せないことを認める必要があります。
>その時はじめて神の力が私たちの上に及ぶようになります。
この、『その時』が気になったんですね。
赦すふりから、本当の赦しに変化するために、
クリスチャンはどのような行動を具体的にすべきかについて、
ありのパパさんは、どのようにお考えでしょうか。
おそらく、この問題で多くの方が、自分は偽善者だと思っている人が多かろうと思います。
で、これまたおそらく、その様な偽善的な部分について、矯正をするにはどうしたら良いかが分からなくて、結局放置されているのが現実かと思われます。
よろしくお願いします_ミ_ _ミ_。
主の祝福がゆたかにありますように!
通猫さん、こんばんは。
コメントありがとうございます。
「そこ、そこ、」というところで止めておくのが、また読んでもらうための秘訣です(笑)。
実は自分でもよく分かっていないので、あまり詳しく書けないということもあります(笑)。
ご一緒に、聖書から考えていきたいと存じます。
明日はクリスマス聖日です。
良いクリスマスのシーズンをお過ごしください。
通猫さんとご家族の上に神様の豊かな祝福がありますように。
追伸:
実名はやめてね(笑)
注目して、読んでいましたら、このブログが目にとまりました。仰る通りだと思います。
Abeさん、こんばんは。
コメントしてくださり、感謝をいたします。
当ブログは無名性の原則で運用していますので、これからは「Abeさん」とお呼びさせていただきます(笑)。
よろしくお願いします。
またコメントしてください。お待ちしています。
いつも、同感させられる内容ばかりで本当に励まされます。
私の以前の教会は韓国系ですが、韓国の教会は(全てがそうでは無い)儒教思想が強く非常に牧師や目上の人をを崇めさせるような習慣があります。
牧師は知らず知らずのうちに裸の王様になっていくようです。
そして成長すれば教会を自分の城として傲慢になり、気が付けば野心家になり牧会というビジネスになっています。
偉くなりたければ低く仕えるものになれと主は言われたのに、まちがった牧師の権威で信徒を押さえつけてコントロールしているのです。
それを嫌というほど見せられてきたのです。
私は偽預言者、偽使徒、偽教師を見分ける事に聖書に聞きました。
今では見分けがつくようになりましたが、このような辛い経験がないとなかなか偽預言者として判断ができません。
偽者は本物のように見せる狡猾さを持っています。
選民をも惑わすとありますから、ありパパさんのようなスレッドをほんとに感謝です。
こんにちは、adamⅢさん。
コメントをありがとうございます。
○韓国の教会には儒教的な家父長制が色濃く反映していますね。
しかし韓国では(ご存じだと思いますが)「すきあらば追い落としてやる」的な弱肉強食の競争原理も色濃く働いています。
それで二つの原理が奇妙ではありますが、教会を破綻させないようにバランスを維持させているように見えます。
○これに対して日本は弱肉強食の原理が弱い替わりに家父長的な個人崇拝の傾向も弱いようです。
ですから常に牧師と役員会が喧嘩しているような感じです(笑)。
○このような日本の土壌に家父長的な個人崇拝を持ち込んだらどうなるかというのは明らかであったように思います。
韓国での家父長制は、いつ寝首を掻かれるか分からない危険と隣り合わせの危ういものです。
しかし日本に家父長制を持ち込めば、もう片方のバランスをとるものがありませんから、個人崇拝やカルトになるのは時間の問題ということになります。
◎しかし国内に在住するすべての韓国人牧師がそうであるということは決してありません。
殊に戦前から日本に在住する韓国人牧師は火のような試練(特高による拷問、家族への迫害、貧しさなど)をくぐり抜けて、お国柄などをはるかに超越する人格的高潔さを身に付けておられる方が多いです。
まことに尊敬に値する方々であると存じます。
○日本人も韓国人も、それぞれキリストにあって人格的変貌を遂げたいものです。
またコメントしてください。お待ちしています。