聖霊の賜物は私たちが楽しみつつ生きていくために与えられた

聖霊の賜物は聖霊派教会の専売特許ではありません。
それは聖書に明確に書かれていることです。
この神からのプレゼントを活用しなければ、キリスト者は喜びをもって生きていくことができません。
そこで聖霊の賜物の聖書的な活用方法について考えます。

        

1.聖書に書かれてある「預言」とか「聖霊の賜物」とは何か?

ある人々には「預言」と「聖霊の賜物」という、うっとりするような大好物が二つも出てくるということになりますし、ある人々にとってはアレルギーを起こす物質が二つも登場するということになります(笑)。

ありのパパが福音派の教会に所属していたときは、これらのことを口にする人さえいませんでした。
キリスト教とは100%敬虔の修行をする信仰であったのです。
それ以外の要素はすっぽり抜け落ちていました。

それが聖霊第三の波の教会に移ってからは、真逆になりました(笑)。
今度は聖霊の賜物一本槍になりました。

しかしあまりに聖書の教えと違うことに耐えかねて、この運動にさよならをしました。
では聖書から見て穏当な理解とはどのようなものでしょうか?

        

2.預言とは何か?

テモテへの手紙第一では『長老によって与えられた聖霊の賜物』とあり、テモテへの手紙第二では『私(パウロ)が祈ったとき与えられた聖霊の賜物』とあることから、この長老とはパウロ自身を指しているようです。

パウロがテモテをエペソ教会の牧会のために派遣するとき、涙をもって祈ったときに、何らかの聖霊の賜物が与えられたようです。
パウロはテモテに与えられた聖霊の賜物がどんな賜物であったのかを明らかにしていません。
しかし前後の文脈を見ると、どうやら「御言葉を宣べ伝えるための賜物」であったようです。

ここから明らかなのは、預言とは確かに聖霊の賜物の一つであるのですが、見も知らない人が口からでまかせに自分の言いたいことを言うのが預言ではないということです。

初代教会の預言者たちも、これ以上進むと囚われの身になると泣きながらパウロに預言しました。
泣くとは、言い換えるなら人格的な関係がパウロとの間にあったということです。
預言するときに相手のことを考えると泣けてきて仕方がないというのは、相手のことを心底心配しているからです。
間違っても「お前は呪われる。これは主の預言」などとは言わないのです。

ありのパパが現代の「預言者運動」に関わっている人たちに言いたいことは、聖霊の賜物を遊び道具に使うのはやめなさいということです。

        

3.聖霊の賜物とは何か?

テモテを心配して泣きながら祈ったとき与えられた聖霊の賜物を軽視してはならないとパウロは言っています。

ここに二つの誘惑があります。

一つは与えられた聖霊の賜物に関する仕事しかしないという間違いです。

「だって僕、この賜物しか、与えられてないも~ん」と誰かが言ったとしたら、あなたはどうしますか?
「聖霊の賜物が与えられていることに関しては聖霊の賜物によって仕事をするし、聖霊の賜物が与えられていない分野の仕事をするときは、御霊の実によって仕事をするんじゃ。どあほ!」
みなさんなら、こんふうにお答えになるでしょう。いやいやそんな風に答えるのは、ありのパパだけだよと言いますか(笑)。

しかしテモテにとっての誘惑は、この一つ目のものではなく、二つ目の誘惑であったようです。
それは他の仕事にエネルギーを割き過ぎて、聖霊の賜物が与えられている彼がやるべき本来の仕事へのエネルギーの割き方が疎(おろそ)かになるということです。

テモテに与えられた聖霊の賜物が御言葉を宣べ伝えるための賜物であったとします。
そうすると彼は本来的な仕事である説教に精力を集中し、残ったエネルギーで他の牧師の仕事をするべきでした。
しかし、これがややもすると逆転するときがあります。

ある未信者の人から聞いたのですが、その方は教会にゴスペルを習いに行っているのですが、いつ教会に行っても、その教会の牧師は教会の壁にペンキを塗っているというのです(笑)。
この方は表面ではキリストの福音を受け入れないと言いつつも、ゴスペルを習いに教会に行っているうちに教会のどなたかとお話する機会があるのではないかと密に期待しているようなのです。
それがいつ教会に行っても、教会員は一人もおらず、牧師はペンキばかりを塗っている(爆)。
教会は未信者に失望を与えてはなりません。

牧師に限らず仕事をしている人なら誰にでもこの危険があります。

        

4.預言と聖霊の賜物が結びつくとき

では涙の預言(人格的なつながりがあるという意味)と、神から任命された仕事を遂行するために必要な聖霊の賜物が結び合わされるときどんなことが起きるでしょうか?

①人格的関係を通して与えられる預言

与えられた聖霊の賜物を軽視しないためには「あの人が泣きながら祈ってくれたときに与えられた」という体験が必要です。
それは自分は誰かに愛されているという確かな経験でもあります。

この経験を持てない場合もあります。パウロがそのような人です。
しかし彼は自分のお弟子さんたちには、あたかも親子関係にあるような愛情を注ぎました。
私たちも倣(なら)いたいものです。

②仕事に意義を与え、目的意識を与える

人格的な関係をとおして働く聖霊の賜物は著しい効果を発揮します。
まずその人自身を助けます。

同じ仕事を、ある人は嫌々ながら行い、ある人は楽しみつつ行います。
感謝も大切、喜びも大切です。
しかし楽しんでいるかどうかというのが肝(きも)です。

なぜなら楽しんでやっているときにだけ感謝や喜びが湧いて来るからです。
楽しみなしに感謝や喜びが湧いて来るというのは抑圧された末の演技に過ぎません。
皆さんは、いかがでしょうか?

③感謝されることをあてにしないでもすむ生き方

次に周りの人々に良い影響を与えます。

親切をされても押しつけがましさを感じる人がいるのはなぜでしょうか?
その方に親切にされても、「ありがとう」ではなく「すいません」と答えてしまいそうになるのです。

もちろんそう答える側にも問題がありますが、素直にありがとうと言えないものを感じさせているということも事実であろうと思います。

自分自身が楽しんでやっているとき、即ちやること自体が楽しみであるとき人々からの感謝はおまけに過ぎませんから、おまけをあまり期待しません。
そうすると人々は過重な期待を感じないですむというわけです。
人々に感謝されないと仕事を続けることが出来ないという場合は大きな問題があると言わなければなりません。

愛によって働く信仰だけが重要です。
愛が伴わない信仰でも、いっときは効果があります。
しかしいつか忘れ去られます。
いつまでも残るのは愛によって働く信仰です。

◎平安と祝福を祈っています。

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