女性の地位や、あるべき姿についてパウロ書簡に書かれてあることを読むと一見理解に苦しむところもあります。
たとえばテモテへの手紙第一3章8~15節の個所です。
『しかし女が慎みをもって信仰と愛と聖さとを保つなら、子を産むことによって救われます』(新改訳聖書)
「子供を産まんと救われんのかい!どいつたろか!」なんて言っているのは、誰ですか?(笑)
今日は、一見理解に苦しむ聖書の個所をどのように理解することが最も妥当なのかを皆さんとご一緒に考えます。
1.聖書翻訳の原則には複数ある
①聖書翻訳は原語ではなく原意に忠実でなければならない
我が国福音派教会が総力をあげて訳出した新改訳聖書ですが、この聖書は「原語に忠実」という翻訳原則に立っています。
この原則に従って訳すと、上記の御言葉のように「もう笑うしかない」というような訳文が出てきます。
これなどはあまりに福音の原則から逸脱していることが明らかであるゆえに、間違って受け取る危険は少ないとも言えます。
(しかしペテロの手紙に書かれてある「イエスが十字架に掛かって復活するまでの間、黄泉に下って福音を宣べ伝えた」という明らかに誤って訳出された訳文はセカンドチャンス論の根拠とされてしまいました。)
この部分の正しい訳文は『しかし女が慎み深く信仰と愛と聖さをもっているなら、子供を産むという最も平凡な家庭生活の中に女性の生きがいを見い出すことができる。そして救いは完成する』(現代訳聖書)です。
このように訳されて初めて、聖書の真意を知ることが出来ます。
このように新改訳聖書には適切に訳出されていない個所が無数に存在します。
この聖書を日々のデボーションに使っている限り、いつまで経っても「聖書はこう言っている」ときっぱりと宣言できる自律した信仰者にはならないのではないかと危惧します。
②初代教会の時代には聖書は読むだけで分かった
迫害によって牢獄に囚われの身になったとき、誰も助けてくれません。
このようなときに信仰者を支えるのは「聖書全体は何と言っているか」という理解です。
それが何を言っているか分からないような意味不明の聖書を読んでいては、肝心要のときの支えとなることが出来ません。
ありのパパは新改訳聖書の翻訳者たちはこのことをどのように考えているのかと、ずっと不思議に思っていました。
そのようなとき聖書翻訳者を交えた座談会がありました。
その席で、ある翻訳者はきっぱり次のように言い切りました。
「聖書の一節一節の真意は、信仰者個人が聖書研究によって明らかにしていただきたい。そのような努力をすることが必要だ」
この発言はありのパパにとっては翻訳者の責任を放棄しているに等しい発言でした。
新約聖書が初代教会の信者に宛てて書かれたとき、果たして一節一節の真意を聖書研究によって明らかにしていったでしょうか。
実際は、会衆の前で手紙が朗読される形で聖書は読まれたのです。
それでも教会の信者たちは使徒たちの真意を理解することができました。
それほどに分かりやすかったということです。
そうであるなら現代の教会もまた同じような形で聖書を信者に届けることが聖書翻訳者の義務です。
2.聖書は文化に対して漸進的アプローチをとっている
『女が男に教えたり、また、男の上に立って権力を振るうことを、私は許さない』
この御言葉はどのように受け取れば良いでしょうか?
これは聖書翻訳の問題ではありません。
原語ではなく、原意に忠実に訳してもこうなります。
これは文化への適応の問題です。
例えば聖書は奴隷の存在を認めていますが、これは積極的に肯定しているのではなく、現実の社会に存在しているのを追認しているのに過ぎません。
その証拠に
a.奴隷の人権を尊重した取り扱いを信者の雇用者に求めている。
b.奴隷の身分から解放されることが出来るなら、奴隷を止めるように勧めている。
c.教会内では奴隷も、女も、貧乏人も、皆同じように扱われた。
女性の地位にかかわる問題も、この視点から考えるとき聖書の教えをどのように理解すれば良いかは明らかです。
それはパウロは西暦一世紀の時代と地域の文化的価値観を追認しつつ、どのようにクリスチャンは生きれば良いのかを語ったのです。
この適用の仕方は、どの時代にも、どの文化的背景にあっても適用可能です。
もちろん21世紀の日本に適用することも可能です。
それを適用することが、私たちクリスチャンに委ねられた使命でもあります。
3.聖書の指し示す目標は明らか
聖書の教えを正しく理解しない人々は、三つの反応に分かれます。
一つは聖書を自分勝手に解釈することです。
聖書がキリスト教なのです。
聖書をおいて他にどこにもキリスト教は存在しません。
そうであるのに霊知主義と呼ばれるグノーシス主義的理解に陥り、自分勝手な敬虔の感情に溺れてしまいます。
二つ目は間違って解釈した聖書の教えを自分と社会に適用し、自分自身を傷つけ、隣人を傷つけ、社会と国家に損害を与えます。
この典型が(残念ながら)アメリカ福音派教会であると言えます。
三つ目は聖書には時代的制約・文化的制約があると言って、聖書の霊感を認めないことです。
聖書という土台に全面的に据えられていない教会は危うい存在ではないでしょうか。
私たちは、この三つの道に歩まず、聖書を正しく理解し、聖書の教えに従って歩む道を進まなければなりません。
それは聖書の教えに従うキリスト者が増え拡がっていくに従って、神の御前での平等という普遍的な価値が現実社会において実現していくことを、神が期待しておられることを示しています。
クリスチャンは自分たちの属する文化的な常識に安住・妥協するのではなく、聖書の示す究極的目標に向かって邁進すべきことを聖書は教えています。
◎平安と祝福を祈っています。