カトリックが教える教理が、聖書から見てどの点で間違っているかを皆さんとご一緒に見ていきます。
その前にお断りしておくことがあります。
それはいかにカトリックの教理の間違いを批判しようとも、それはカトリック教会に集う人々を非難しているのではないということです。
アメリカの戦争政策を激しく批判したとしても、アメリカ人そのものを非難している訳ではないのと同じです。
教理・神学と、人間を区別して捉えることが大切です。
①司祭の結婚禁止規定
プロテストタントでもいったん牧師になった方が途中でリタイヤすることは珍しいことではありません。
しかしカトリック教会における司祭のリタイヤ率は異常であると言わなければなりません。
大体10人の同期の司祭がいたとしたら、長期にわたって司祭であり続ける人は十人中の一人か二人であると言われます。
その理由は司祭の結婚禁止規定にあります。
聖書には『後の時代になると結婚を禁止したりする』(Ⅰテモテ4:3)者たちが現れるとあります。
そのような教えは、嘘を平気で言う良心が麻痺した者たちの偽善によるものであると、聖書には書かれているのです。(Ⅰテモテ4:2)
ある人たちは「カトリックの教えを納得した上で、献身したのだから、仕方ないでしょう」と言います。
しかしそうではありません。
献身者はカトリック教会の所有物ではなく、神に献げられた献納物であるのです。
ですから間違った教えによって神のものである献身者の生涯を台無しにする権利はカトリック教会にはありません。
②マリア崇拝
マリア崇拝ぐらい、真のキリスト信仰に反するものはありません。
この教えをどうしたら、良心に反しないで受け入れることが出来るのか見当がつきません。
マリア崇拝の起源は、教会が宣教をしやすくするために宣教地の女神崇拝に妥協してキリスト信仰の中に女神信仰を取り込んだのが始まりです。
それを徹底的に批判したのがネストリウスでした。
ネストリウスにも批判されなければならない点が多くあったため、両者の争いは泥仕合になりました。
問題を多く抱え込んでいる者同士で争って、片方が勝利し、片方は異端宣告を受けました。
そして女神崇拝という偶像礼拝はカトリックの中に定着しました。
教会会議でネストリウスに異端宣告がなされたのが431年です。
1517年にルターがカトリック教会への抗議行動を起こすまでに1086年の月日がたっているのです。
その間、大多数のキリスト教徒は間違った教えの闇に閉じ込められていたのです。
③煉獄(れんごく)の教理
人間が神から離れるとき真っ先に行うのがオリジナル宗教の創作です。
聖書のどこにもない煉獄というものを創作し、自身のオリジナルの宗教を作り上げます。
プロテストタント・リベラル派も万人救済主義というオリジナルを作り上げました。
近頃は福音派でさえもセカンドチャンス論という福音派版の煉獄の教理を作り上げました。
これは言うまでもなく、聖書のどこにもない教えを人間が創作したものです。
自分が死んだ後に神様と会わなければならないとき、聖書にない教えを水戸黄門の印籠(いんろう)のように神に向かって「この教えが目に入らぬか。この教えこそは煉獄・万人救済・セカンドチャンス論である!」とでも叫ぶつもりなのでしょうか。
神様の御前で通用するのは、神の御言葉である聖書の言葉だけです。
なぜそんな当たり前のことが分からないのか不思議でなりません。
④避妊の禁止
エホバの証人は輸血を禁止します。
モルモン教徒は子だくさんの家庭が多いです。
このどれもが聖書の教えにもとづいていると主張します。
しかし聖書に当たってみると、引用されている聖句はそんなことは少しも言っていないのです。
カトリックの避妊禁止の教えぐらい守られていない教えも珍しいかもしれません。
しかしこれが良心的カトリック教徒の人権を侵害していることは明らかです。
避妊をする・しないは個人の自由にまかせられるべき領域であり、何人(なんぴと)も侵害してはなりません。
聖書さえも、そのことに口出しをしていないのですから。
⑤教会を聖書より上位に置く
今まで見て来たカトリックの教えの間違いは、同じ出所(でどころ)から出発しています。
それは教会会議を聖書より上位に置くということです。
このことを正当化するのにカトリックはレトリックを用います。
それは聖書を編纂したのは教会であるのだから、教会が聖書と違ったことを教えても良いという主張です。
しかしこれは故意に重大な一点を見逃しております。
それは聖書は教会が編纂したから聖書に「なった」のではなく、元々聖書と認められていたものを、教会が聖書として追認したというのに過ぎないということです。
◎確かに教会は真理の保持者です。
しかしそのためには教会は聖書に従うものでなければなりません。
それだけが教会が真理を失わないでいることが出来る唯一の道なのです。