世の中で大切なことは三つしかありません。
それは自分と自分自身との関係、自分と他者との関係、そして自分と神の関係です。
自分と自分自身との関係を自己一致、自分と他者の関係を人間関係と呼びます。
そして自分と神の関係を信仰と呼びます。
1.自己受容と自分自身の関係
建前と本音は、自分と自分自身と全く同一ではありませんが、似ているところもあります。
建前は自分であり、本音は自分自身です。
中には、自分の本音が分からない、自分自身が見えないという人がおられます。
自分自身とは自分の生きてきた総体であるとも言えますから、自分史は大切なものです。
そうであるにもかかわらず、自分の小さい時のことを全く思い出せないという方もおられます。
「自分自身って何?」ということでは、自己受容するなどということは夢のまた夢でしかありません。
ではどうしたら良いかと言いますと、目に見えない自分自身、認識できない自分自身に向かって「今まで無視してごめんね。これからはあなたのことを配慮して生きていくからね。よろしくね」と言ってあげることです。
そうしますと、初めの頃はチンプンカンプンだった自分自身が「こういうものかな?」と手応えを感じるようになってきます。
そしてずっとあなたに無視されて、いないものとして振るまわざるを得なかったあなたの「自分自身」が姿を現してまいります。
それに伴って、段々と感情表現が豊かになってきます。
泣いたり、笑ったり、怒ったりの喜怒哀楽の情が豊かになってきます。
2.自己受容と他者受容の関係
聖書には「自分自身を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい」とありますから、そもそも自分自身を愛せない人には、隣人を愛するなどということは夢物語でしかありません。
人様の足りないところに目がいってしまい、短所を指摘して気まずくなるというのは世間では普通にあることです。
これの真の理由は別の所にあります。
それは元々人を愛せないので、そんな自分が苦しくて堪らないのです。
それで何とか相手の短所を指摘することによって、相手の人は自分が愛せなくても当然であるのだと自分を納得させたいためにそのような行動をとるのです。
では自分自身を愛している人は、どのような行動をとるかと言いますと、まず無理をしません。
なぜなら自分自身を愛している分しか、人を愛せないと知っていますから、自分の分を弁(わきま)えています。
もし相手のマイナスが自分のプラスより大きかった場合、「ごめんなさい。私はあなたを愛せるほどには成長していないのです。どうぞ成長できるようお祈りください」と言います。
そうやって、少しずつ成長の道を歩んでいきます。
3.自己受容と神との関係
ありのパパがキリスト教に入信して一番良かったことは、自分自身を受け入れることが出来るようになったことです。
これを自己受容と言います。
自己受容とは自分自身のありのままを、そのまんまで受け入れることです。
私たちが自分自身を受容できる理由は何かと言えば、それは神が私たちを愛し、価値ある者としてくださっているからです。
そのために御子イエスを十字架にまで掛けてくださいました。
それほどまでに私たちは価値があり、愛されているのです。
ここに神の愛があります。
これを自己受容の資源として、私たちは無限に成長していくのです。
世の中の人が何と言おうとも、あなたに向かって「わたしの目には、あなたは高価で尊い」(イザヤ43:4)と言ってくださり、決してあなたを見捨てないのが、キリストの神です。
この神様の愛を心の糧(かて)として自分自身の人生を生きていきたいものです。
◎平安と祝福を祈っています。