クリスチャンの霊的戦い

聖書が教える霊的戦いと、聖霊第三の波が教える霊的戦いは内容が全く異なります。
なぜ聖書が教えていない教えを捏造するようになったのかの原因を明らかにします。
次に聖書が教える本来的な霊的戦いについて見ていきます。

        

1.聖霊第三の波が教える『霊の戦い』

新約聖書のエペソ教会への手紙の6:10~20にはクリスチャンの霊的戦いについて極めて具体的に書かれてあります。
クリスチャンの戦いの相手は、人間ではなく悪魔と悪霊どもの大勢力であると記されています。
この聖書箇所は、神学や教派によって極端に解釈が分かれるところです。
しかし覚えておかなければならない事は、神学がいかほど異なっていたとしても、どんな形であれクリスチャンには霊的戦いがあるという事です。

両極端の間違いが存在します。
一方の間違いは霊的戦いを否定する事です。
「そんなもんはない!」と力まれても、「あるものはある!聖書に書いてある」と答えるほかはありません。

もう一方の間違いは、霊的戦いを機械的・人間的にとらえて「悪霊追い出し」の一点に集約させてしまう事です。
興味深い事に聖書の霊的戦いには、悪霊追い出しは全く出てきません。

聖霊第三の波は全く別のものであった霊的戦いと悪霊追い出しを人為的に結合させて、新しい教理を作り出すということをしました。
これはキリスト教的な一元論の世界観ではなく、ギリシャ的な世界観、すなわち善と悪、神と悪魔、人間と悪霊という二元論の世界観が背景にあって出てきたものです。

聖書にないことを熱心にやっても、それは一人相撲であり、空回りするほかはありません。
聖書から出ていない教えを、キリスト教の教理とすることは教会にとっての自殺行為です。

        

2.聖書が教える霊的戦い

それは人生を包含(ほうがん)するものです。
悪霊追い出しに象徴される極端に視野のせまいものでなく、クリスチャンの生活の全領域にわたるものです。
その戦いに対して、立ち上がるように命じられ、神が備えておられる「神の武具」を受け取るように言われています。

a.偽りのない心を帯として腰に締める

偽りのない心とは自己一致しているということです。
建前と本音が一つであるとき、人は強いのです。
しかし隠された二面性がある時、その人は弱い者となります。

b.キリストの正義を胸当てとして胸に着ける

たとえ薄汚い存在に過ぎないとしてもそれを認めるとき、その人は強い人です。
なぜ強い人かというと、キリストが十字架で私たちの罪を処分してくださったからです。
その実現されたキリストの正義を胸当てとするとき、私たちは堂々と胸を張って生きて行くことができます。

c.神との平和を内容とした福音をいつでも宣べ伝えることが出来るように、足に履く

足に履くとはまことに興味深い表現です。
福音が頭の中にだけある人や、お腹の中にある人(福音と御利益が同一である人を指す)、様々な人がいますが、いつでも人に伝えることが出来るように足に履けと聖書は言います。

d.悪魔の放つ火の矢を消すために、信仰を大盾とする

悪魔の放つ火の矢とは、不信の矢ではないでしょうか。
「受け止めきれない」「意味がわからない」ということが私たちの生活には沢山ありますが、いつか分かるときが来ると信じて納得することが、真の信仰です。(注:諦めるのとは違います。)

e.救いの恵みを兜(かぶと)としてかぶる

これは文字通り、最も大切な頭を最も高価な恵みである救いで守るということです。

f.神の言葉は御霊の与えておられる剣である

神の言葉が神の剣であるというとき、何を意味しているのでしょうか。
ありのパパは、間違った教えの風が吹き荒れるとき、真理を判別するための剣であると理解しています。

g.どんなときにも御霊の助けによって祈ること。そのために、忍耐の限りを尽くして、心の目を覚まし、また、 全てのクリスチャンのために祈るべきこと

私たちが意識して[御霊の助けによって祈る]とは何を指しているのでしょう。
それは異言で祈る賜物を活用した祈りであると思います。
どのように祈れば良いか分からない私たちを、御霊が言いようのないうめきをもって執り成してくださるのが、異言で祈る賜物を用いた祈りです。

以上がクリスチャンの霊的戦いであり、そのために神が用意しておられる神の武具です。
どうでしょうか。私たちはこの七つの神の武具を身につけているでしょうか?
この神の武具をもって、クリスチャンの戦いで良き戦果を上げたいものです。

◎平安と祝福を祈っています。

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