我が国では人生相談とカウンセリングがごっちゃになっているところがあります。
カウンセリングは人生相談ではなく人格相談です。
では人生相談と人格相談では、どこが違うのでしょうか?
1.精神科医師との会話
定期的に精神病院を訪問しているありのパパですが、その時に病院の医師とお話ししたことがありました。
医師が「何か悩みはありませんか?」と聞いてくださったので、正直に「離人症的症状に悩むことがあります」と答えました。
離人症とは、自分とは別の自分がもう一人別にいて、そのもう一人の自分に冷静に見つめられている感じがするというものです。
これは心的外傷を受けた人に見受けられる症状です。
実はこれを告白するのに相当の勇気が必要だったのですが、医師の反応は「私もそうなんです」というものでした。
ありのパパは内心「それちがうやろ。今スポットライトが当たってるのはわし。このわしや」と突っ込みを入れました。
しかし医師を見ると、完全に自分の内面に目が向いているようで、「お~い。俺を置いてけぼりにしないでくれ~」と言いたかったのですが、時すでに遅し(笑)。
仕方がないので「あぁ、そうですか。そういうことありますよね」と心のこもっていない受容をしたことでした(笑)。
これは雑談として行われたカウンセリングであるからこそ、許されたことです。
お金をもらって、プロとしてカウンセリングを行っている場合に、「私もそうなんです」と言うようでは、お客さんは誰も来なくなってしまうでしょう。
2.カウンセラーと守秘義務
カウンセラー同士で様々な問題を打ち明けて、互いに考えあうことがあります。
そのようなときに、具体的に名前を出したり、誰であるか特定できるような情報を開示してしまうとしたら、これは間違った行為です。
これが教会の牧師が行う牧会カウンセリングですと、大変まずいことになります。
牧師には信徒について知り得た情報について守秘義務があり、何よりも大切にしなければなりません。
気の許せる友人であっても情報を漏らすことがあってはなりません。
プロ意識に徹し、失敗することがないようにしなければなりません。
3.カウンセリングと人生相談はちがう
カウンセリングと聞いて真っ先に思い浮かべるのは、テレビのワイドショーなどで行われる人生相談ではないでしょうか。
しかしカウンセリングと人生相談には明確な違いがあります。
それはカウンセリングは人格相談であるということです。
人生相談の場合は、具体的な解決方法の提示ということがメーンです。
これに対して人格相談であるカウンセリングはクライアントの心に寄り添い、クライアントが余裕を取り戻し、自分で考えるようになり、自分で結論を出し、実践していくように導きます。
どちらが良いという類のものではありませんが、気を付けないといけないことは、カウンセリングをやっているつもりで人生相談をおこなってはならないということです。
牧師が聖書から解決策を提示するのはカウンセリングではありません。
それは人生相談に過ぎません。
牧会カウンセリングとは、解決策を信徒自らが見いだし、実践していくことが目標です。
そのために疲れ、傷ついた心をありのままで受容し、ぬくもりで包み込んでいくことこそが、第一に大切なことです。
カウンセリングをやっているつもりが、実は人生相談に過ぎないものだったり、カウンセリングごっこに終わっていないか、よくよく注意していなければなりません。
カウンセラーがしなければならないことは、クライアントとのリレーション(信頼関係)の構築です。
これさえ出来るなら(極論するなら)あとは神様が癒しの御業を行ってくださるのです。
4.アマチュアがカウンセラー役をやらなければならないときがある
今の時代は誰であっても、カウンセラーの役割を果たさないといけないことがあります。
「私は訓練を受けていないし、興味もないから」という言い訳が通用しないのです。
もし自分の子供が登校拒否になったとき「私、カウンセラーじゃないから」と言う親がいるでしょうか?
そんな親はどこにもいません。
不慣れであっても挑戦しなければならないときがあります。
神が私たちに願っておられることは、真の意味で互いに愛し合うことです。
愛は、自分の意見を押しつけたりしません。
愛は、相手の心に届かなければ、愛しているとは言えないのです。
お互いは神様のご期待に沿いたいものです。
◎平安と祝福を祈っています。