リベラル派クリスチャンの方が自身のブログを通して、福音派・聖霊派教会の問題を指摘・指弾されています。
この記事はこの問題についての神の意志はどこにあるのかを解説しています。
1.「吉祥寺の森から」のブログが果たした役割
①福音派教会の盲点となっていたことを気づかせてくれた
福音派教会の理解として、人権よりも神の僕(しもべ)としての立場が優先されてしまう傾向がありました。
もちろん自分の人生を自分の意志で神にささげるのは何も問題もありません。
しかし社会通念上許されない手段を使って、他者の人生を神にささげることを強制するのは聖書から見ても正しいことではありません。
このような人権理解の盲点が、今回の事件の温床となったことは明らかでしょう。
私たちはリベラル派クリスチャンに指摘されるまで、自分たちのやってきたことを正確に理解できないままでした。
これはもし指摘されなかったら、人権侵害を延々と続ける可能性があったということでもあります。
②被害者対応の仕方のまずさにも気づかせてもらった
被害者が他の指導的な福音派教会の牧師に相談をしたとき、「もっと祈りなさい」「赦しなさい」「こんなことしてると地獄に落ちるわよ」などど言われたたことが明らかになっています。
これは牧会者として決して許されない対応です。
このような対応をするのが当たり前に感じられるほど、福音派教会は人権に対する意識が低かったのです。
③牧師の守秘義務意識の欠如を教えてもらった
クライエントの提出した資料を、犯罪を犯した張本人に郵送したことは、ありえないほど愚かな対応であり、明らかな守秘義務違反です。
いまだにそれを謝罪も悔い改めもしていないのは、聖い心・聖い生き方はその人の話す言葉や行動に現れると教えるホーリネスの教えを道端に投げ捨ててしまうことです。
あるペンテコステ派の牧師が言われた、「教会成長も良いが、ルールを守ってやらなければならないのです」との言葉の意味が、これらの事件が起きるまでは本当には理解できなかった私たちにとって、このリベラル派の兄弟(クリスチャン同士の親しみを込めた呼び方)は神からの使者のような存在です。
○私たちの盲点、人を人と思わない、人を教会成長の道具にするような人間観に気づきをもたらしてくださりました。
2.「吉祥寺の森から」ブログに福音派クリスチャンが感じる問題点
彼が良しとするのはお行儀良く静かな教会、聖書に忠実でない説教を良しとする、死せる正統主義(リベラル派神学)の教会です。
これは結局、歴史的・聖書的キリスト教の否定を意味していないでしょうか?
3.福音派クリスチャンのこの問題への態度
「吉祥寺の森から」ブログやブログ主(ぬし)を非難する多くの匿名の福音派信者は罪を犯しています。
これらの者たちは自分は何もしないで、命がけで行動している人を非難するのみです。
神の意志と導きを確信して立ち上がったブログ主に向かって、後ろから石を投げるような卑怯なまねをして恥じるところがありません。
彼らは良心を持たぬ者であり、自称クリスチャン(偽兄弟)に過ぎません。
○神のさばきの斧が、自らののど元に置かれていることを知るべきでしょう。
結論:
このリベラル派のクリスチャンの方がやっておられることは神から出たことである。
それに敵対することは神に敵対することになる恐れがある。
以上のことから彼の働きのため祈り、応援をすることが神の意志であると確信します。
◎回復と平安と祝福を祈っています。