聖書が教えていることと、福音主義キリスト教が教えていることの違い

聖書の信仰と福音主義キリスト教の違いは、罪のついての見解と、教会に対する理解と、信徒の交わりの捉え方の違いにあります。
もし私たちが聖書の信仰を取り戻したいと願うなら、この三点について考えを改め、実践する必要があります。

        

1.福音主義キリスト教と聖書の教えの違い

聖書の正しい理解

①罪は犯しても仕方がないのか、それとも罪から解放されるのか?

最も典型的な例が罪の赦しと罪からの解放の関係に付いての教えです。
クリスチャンの決まり文句とも言えるものに次のようなものがあります。
「罪を犯すことはいけないことだが、一面では仕方ないことでもある。なぜなら私たち人間は弱い存在だから」
こう言われると、なぜだか分かったような気になるから不思議です。
しかし聖書には、救いとは罪からの解放を意味していると疑いの余地なく明確に書かれてあります。

クリスチャンは無意識のうちにアンビヴァレンスな感情に悩むことになります。
なぜなら人間が弱い存在であり、罪を犯しても仕方がないのなら、なぜ聖書には罪からの解放の必要があると書かれているのかということになるからです。
人間というものは私たちが思っているよりも、ずっと論理的な存在です。
矛盾した論理を受け入れることが出来ない存在なのです。

②罪の赦しは私たちが罪を犯したときの保険か?

聖書は、罪の赦しを罪から解放されるための強力な武器として描いています。
罪の赦しを、罪を犯したときの保険のように考えている私たちとは大きな違いがあります。
エペソ書の二章を読むと、罪からの解放という言葉がバンバン出てきます。[エペソ02:01~10]

そして罪の描写が大変具体的です。
まさにアルコール依存症者が再飲酒したら死ぬことになると極めて具体的に依存症からの解放を定義しているのと似ています。

③実際的な罪からの解放

私たちは日常生活の中で実際的に罪から解放されているでしょうか?
もしそうでないなら罪であると認識しているものから解放されることが必要です。
これが死せる正統主義となってしまったキリスト教に、霊的な命を取り戻す道です。

        

2.真の聖書的教会の条件

①聖書が教える真の教会とは?

現代キリスト教が聖書の教えと大きく異なる、もう一つは教会についての教えです。
現代キリスト教は会堂を建て、そこに信徒を集め、祭典(礼拝)を行うことを当然のこととしています。

セルを取り入れている教会も、セルによって構成される教会を目指しているのではなく、信徒教育という限定された目的のためだけにセルを活用しています。

しかし聖書には「益になることは、公の場でも、家々でも、何一つためらうことなく示し、また教えました」[新約聖書使徒の働き20章20節]とあるとおり、祭典と呼ばれる礼拝と、家々で行われるスモールグループが車の両輪のように機能していました。

②聖書がメイン(主)で神学はサブ(従)

『あなたがたは使徒(新約聖書)や預言者たち(旧約聖書)が教えた教えの上に立っている者たちであり、その中心はキリスト・イエス(の十字架と復活)である』[エペソ教会への手紙02章20節]

多くの教会で、聖書よりも神学や教理が優先されていないでしょうか?
神学とは、そもそも単純・素朴の信仰を厳密な思考によって支えることが目的です。
それが主客転倒して、神学的主張を正当化するための材料として聖書が使われるということはないでしょうか。
ありのパパがかつて所属していた教会は残念ながら、そのような教会でした。
聖書を説き明かすことが最終的な目的ではなく、教理的主張を正当化するために聖書のあちこちから聖句を引いてきました。
そのくせ自らの教理的主張に反する聖書個所には頬被(ほおかむり)りでした。

③クリスチャンは移動可能な小型の主の神殿

『これは御霊が住まわれる、生きた主の神殿であって』[エペソ02:21]

教会堂を建てても、それだけでは生きた神殿とはなりません。
なぜなら御霊は生きておられますから、その方がお住まいになる所も生きている存在でなければならないからです。
生きている存在とは、キリストへの信仰を告白する者たちを指します。
言ってみれば私たちクリスチャンはポータブル(移動可能な小型)の主の神殿なのです。

        

3.生きた交わりとはどのような交わりか?

『あなたがたお互いは生きた交わりのうちに教会を形成していくのである』[エペソ02:22]

生きた交わりとはどのような交わりを指しているのでしょうか?
日曜礼拝の後の、形だけのあいさつが生きた交わりでないことだけは確かなことです(笑)。

ではどのような交わりが生きた交わりと言えるのでしょうか?
それはスモールグループで行われる交わりです。
言いっぱなし・聞きっぱなし・他言無用の三つだけが守らなければならない決まりごとであり、あとは全くの自由が担保された空間で行われる交わりこそ、生きた交わりと言えるのです。

どうしたら聖書の信仰を生きることが出来るでしょうか?
これという決め手はないと思います。

ある人たちは「これが聖書に忠実なあり方の決定版です」と言わんばかりの勢いで自己宣伝に勤(いそ)しみます。
しかしそのように言っている時点で、すでに人造宗教なのです。
私たちが混じり気のない聖書の信仰をもつためには、絶えず自己を省(かえり)みて、人間的信仰に堕していないかをチェックするほかはないと考えます。

◎平安と祝福を祈っています。

タイトルとURLをコピーしました