この記事は初めから終わりまで読めば、アダルトチルドレンが12ステップを使って回復する過程を明確に理解できるように書かれています。
この記事自体が一つの記事になっていますが、ステップごとにあげている個別記事をお読みいただくとより明瞭に12ステップとACの回復についての理解が進みます。
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ACのステップ1
①アダルトチルドレンの回復に障害となるもの
12ステップの一番はじめは「嗜癖(しへき)を使うことに対する無力を認め、この嗜癖を使い続けたために自分の人生が思い通りに生きていけなくなった」ことを認めるステップです。
ACや共依存の方が「私は依存症ではないが、問題を抱えていることは認める」などとシレッと仰ることがあります。
しかしこれは重大な問題を含んでいます。
なぜなら12ステップは依存症からの回復プログラムであって、依存症以外の病気には効果がないからです。
ですから安易に「私は依存症ではないが、問題は抱えている」などと言わないほうがよいのです。
多くの方が自助グループのミーティングにやっては来るが、しばらくすると来なくなってしまう理由がここにあると、ありのパパは考えています。
すなわち問題があることは認めていても依存症であることを認めないなら、ご自分が12ステップミーティングに参加する意味はないと考えてしまう日がいつかはやってくるからです。
だからACや共依存症者が回復したいと願うなら、漠然(ばくぜん)と無力を認めることをせず、[何を嗜癖として使っているのか?]をはっきりさせなければなりません。
共依存症者が使う嗜癖は【他者に対する病的・あるいは度が過ぎたコントロール欲求】です。
アダルトチルドレン(AC)が使う嗜癖は【ACの問題行動】と呼ばれる13個の病的な人間関係嗜癖です。(これは少なくとも13個あるということであり、これだけということを意味していません)
ACや共依存症者に共通するのが[否認]です。
共依存症者の決まり文句は「私はただただ家族が良くなることだけを願っています。そのためなら何だってします!」です。
これは外側から見ると一見美しく、文句のつけようがありません。
だからご本人もその奥底に病的なコントロール欲求が潜んでいるなどとは思ってもみません。
一方、ACはと言うと「私にはこの13個はほとんど当てはまらないと思う。だけどそうなると『なぜACのミーティングに参加しているのか?』ということになるから、この問題への答えを出すのは先延ばしにしよう」と考えます。
ACや共依存はアルコールや薬物の依存症に対しての困難さの度合いは小さいように思えます。
それにもかかわらずACや共依存症者の回復が困難なのは12ステップの入り口で躓(つまづ)いているからです。
この否認の問題はずっと続きます。
12ステップが提供する本質的な解決策である霊的目覚めを得たあとに統合作業というものを行いますが、その時でさえ「私にはこの問題は該当しない」という否認から入るACが多いのです。
しかしものの5分も統合作業をやっていると、次から次へと嗜癖行為が思い出されて「問題がないどころではない。おおありのこんこんちきだ!」と否認が解除されるのです。
このようなわけで「私はまだ病的人間関係を嗜癖として使っていることを十分に認めていないから、ステップの先に進むべきではない」と考える必要はありません。
なぜなら否認がなくなることは一生ないと思ったほうがよいからです。
頭で(客観的理解という意)理解できたらそれで良しとします。
それぞれのステップの学びをご自分が依存症者であることが腑に落ちる機会とします。
そしてこの営みは生涯を通して行われるものです。
病的な人間関係を嗜癖として使っていることを認め、そのために自分の人生がどうにもならなくなったことを認める
一つ目の認めるべきこと | 二つ目の認めるべきこと |
---|---|
病的人間関係を嗜癖として使っていることを認める | 嗜癖を使い続けたために自分の人生がどうにもならなくなったことを認める |
②問題は何か?【二つの無力】
客観的理解として問題は二つあることを知る必要があります。
それは【強迫観念】と【渇望現象】です。
強迫観念とは例えば「絶対に孤立しないようにしなきゃ!」と堅く決意しているにもかかわらず、その場になると周囲から孤立しているという働きをするものです。(これはACの問題の1番目に当たります)
この強迫観念が襲ってくると(唯一つの例外を除いて)いとも簡単に騙されてしまいます。
渇望現象とは強迫観念が教えるウソに騙されてスイッチが入ってしまうと1 ブラックアウトするまでその行為を止めることができないという働きをさせるものです。
依存症者が「無力である」と言うときは、この【強迫観念】と【渇望現象】に対して無力であると言っているのです。
強迫観念と渇望現象は脳の報酬系にできた依存症回路から発せられます。
嗜癖行為は初めのうちは便利な道具だったり、仲の良いお友達みたいな関係にあるのですが、しばらくすると(人によって時間の長短はありますが)自分が嗜癖の奴隷になっていることを気づくようになります。
ACや共依存症者の中には《強迫観念と渇望現象》という概念に対して抵抗を感じる人が多いようです。
「私は強迫観念など感じたことはないし、ましてや渇望現象など体験したことはない」という感じです。
しかし例えば夜更しの問題を考えていただきたいのですが、普段は「早寝早起きを実行しよう!」と意欲満々であるにもかかわらず、真夜中に「ドラマ見放題サービスのドラマを一話だけ見るならいいかも」と考えることはありませんか?([刺激を嗜癖として使う]ACの問題の8番目)
これが強迫観念が教えるウソにコロッと騙されるということです。
そして一話だけのはずが朝方まで見続けてしまうことがありませんか?
これが渇望現象の働きです。
「誰だってそんな事はあるのではないか?!」と言うことは可能です。
しかし誰にでもあるから、嗜癖として使っていないということにはなりません。
自分でも不健全であると感じる人間関係のあり方が【アダルトチルドレンの問題行動】に当てはまるかどうか今一度ご自分を吟味なさいますように。
問題はたった二つしかない
一つ目の問題 | 二つ目の問題 |
---|---|
強迫観念(ウソを教える働き) | 渇望現象(ブラックアウトするまで止めさせない働き) |
③問題の本質は何か?
ACの方に「問題の本質は何だと思いますか?」と質問すると大抵の方は「機能不全家族で育ったこと」とか「嗜癖に対して無力なこと」と答えられます。
これらの答えはみな残念ながら大ハズレです。
問題の本質は強迫観念と渇望現象に対してご自分が無力であるということです。
これが問題の本質だと真に理解できたとき、生育歴とか機能不全家族で育った影響とかは大きな問題ではなくなります。
「強迫観念と渇望現象に対してこの私が無力であるということが問題の本質なのだ」と腹落ちするとき、解決策も自ずと明らかになります。
逆から言えばこの理解が腹落ちしない限り、ステップ1を理解したとは言えません。
問題の本質はたった一つ
問題の本質 |
---|
⇩ |
強迫観念と渇望現象に対する無力 |
ステップ1で理解すべきことは[認めるべき二つのこと][問題は二つしかない][問題の本質はたった一つ]の三点です。
あなたはこの三つの質問にお答えになることができるでしょうか?
[ステップ1の質問]
- ACが認めるべきことは二つあります。それは何と何ですか?
- 問題は二つあります。それは何と何ですか?
- 問題の本質はたった一つです。それは何ですか?
ACのステップ2
ステップ1が回復の基礎に当たるとしたら、ステップ2は土台に当たります。
この基礎と土台の上にステップ3から9の【回復の家】を建て上げます。
ステップ2がプログラムの中心概念です。
そしてステップ2の一つ一つがステップ1に呼応しています。
ステップ1 | ステップ2 |
---|---|
【問題1】強迫観念⇒ | 【解決策】霊的目覚めと共同体の助けと支え |
【問題2】渇望現象⇒ | 解決策は存在しない |
【問題の本質】上記の二つに対して無力⇒ | 【解決】自分を超えた大きな力 |
①共同体から受ける助けと支え
共同体とは同じ嗜癖を使う者同士が集まってつくる自助グループを指しています。
ACや共依存症者にとって自助グループのミーティングに参加することはとても重要です。
なぜならACは鉄壁とも言える否認によって自分が見えなくなっているのですが、他者の話を聴くことと自分の話をすることによってのみ自分自身の真の姿が見えてくるからです。
また通常12ステップの受け渡しは共同体のメンバーを通して行われます。(ありのパパのように2 中間施設で授業形式で12ステップを教えてもらう人もいます)
またアダルトチルドレンや共依存症は完治することのない病ですから、「もう大丈夫!」と思ったときがスリップするときだったりします。
だから常にミーティングに参加することによって自分の置かれた立場を確認し続ける必要があります。
また人間関係の再構築は困難な作業であり、共同体の仲間による人間関係づくりを通して新しい生き方を学ぶことができます。
共同体から受ける助けと支えの一覧表
- 仲間の話を聴くことによって、また自分の話をすることによって否認が徐々に解除されていく
- グループのメンバーに3 スポンサーシップを結んでもらい、12ステッププログラムを教えてもらう。
- 安心・安全の場が確保されることにより、新しい人間関係の再構築の練習場とする。
- さらに成長を続けるために今度は自分がサービスを提供する側に回る
②本質的な解決策である霊的目覚め
a.霊的とはどういうことか?
霊的目覚めとは「回復するのに十分な人格の変化」を指しています。(ビッグブック266頁2行目)
西洋で【霊的】という言葉が使われるとき、それは【人格的な関係】という意味で使われる場合が多いです。
ここを正しく理解する必要があります。
人格的関係とは例えば相手が怪我をして痛がっていると自分も痛みを感じるというような関係です。
この人格的関係という言葉は人と人の関係・神と人の関係に対して使われます。
人と人との関係に人格的関係ということは理解できても、神と人との間に人格的関係があるとは理解し難いのではないでしょうか?
これは私たちが苦しむと、神も痛みを感じてくださるということであり、神の意志を実践すると自分の内側が平安で満たされるということです。
多くの日本人にとっての神信仰は[取り引き]に過ぎません。
「私が信じてやるから、神様も私の言うこと聞いてよね」というお願いごとであり、あたかも自動販売機に百円を入れるとジュースが出てくるみたいな感じです。
ここには人格的関係のかけらもありません。
力のある神信仰とはそのようなものではなく、神と私の間に人格的関係が存在するものです。
ではどうしたら神との間に人格的(霊的な)関係をもてるかというと、真に無力を認めることです。
「私も信じるから」と言っているときは、信じている自分に焦点が当たっています。
信じている自分に焦点が当たっているということは決して[hopeless]になっていません。
なぜなら真に[hopeless]になっている人が自分に焦点を当てるはずはないからです。
自分に対して絶望している人は自分以外の存在に助けを求めます。
そのとき当然ながら自分を見ていません。
そうであるにもかかわらず、ある人たちは神に助けを求めている最中に「俺も信じてやるからさ」などとほざいているのです。
そのようなわけで[信じている自分]に焦点を当てている人は無力をいまだ認めていない人であるということができます。
b.霊的目覚めの本質的要素は何か?
霊的目覚めは宗教的な経験ではありません。
霊的目覚めの本質は視点が変わることです。
今までの自己認識は周りの者が自分を傷つけているのであり、自分はかわいそうな犠牲者だったのです。
だからACは本音の部分では「なんで私が変わらなきゃならないのか?お前たちが変われよ!」と思っているのです。
もちろんこんな思いをもっていること自体が恥ずかしいことですから、ACお得意の【否認】によって自分でもそんな考えをもっていることさえ気づかないほどに心の奥底に抑圧しています。
そんな被害者意識の塊(かたまり)のようなACが霊的目覚めを経験すると「ひょっとして自分は問題当事者かも?」という自己認識を持つようになります。
この自己認識が人生を変えるカギとなります。
なぜなら他者に問題があり、それが原因で自分の人生がどうにもならなくなっていると考える人は他者が変わるまで自分の人生もどうにもならないままです。
しかし他者ではなく、他でもないこの自分が[自分の人生がどうにもならなくなった]原因であると考える人は「じゃ、自分が変わることによって自分の人生もどうにかなるにちがいない」と考えます。
これを視点の転換と言います。
○霊的目覚めの本質は視点の転換
c.どうしたら霊的に目覚めることができるか?
ステップ1と2で[問題は何か?][問題の本質は何か?][解決策は何か?][解決は何か?]を正確に理解すると回復への強い意欲が湧いてきます。
なぜなら今まではどうして良いか分からず途方に暮れていたのが、「これをしたら必ず回復する」というプログラムを正確に理解できたのですから、強い意欲が湧かないほうがおかしいのです。
この強い意欲をもってステップ3で行動のプログラムに取り組む決心をし、即座にステップ4・5の棚卸し作業に取り組みます。
このステップ4・5が終わった時に霊的に目覚める方が多いようです。
ビッグブックにも「このプログラムの半分も終わらないうちに」とありますから、これは今も昔も変わりがないようです。
具体的には[行動のプログラム]と言われるステップ4〜9に取り組むことによって霊的に目覚めることができます。
そして[続けるプログラム]と言われるステップ10〜12に生涯を通して取り組むことによって霊的目覚めの状態が深まっていきます。
③健康な心とは何か?
ステップ2の文言には「自分を超えた大きな力が私たちを健康な心に戻してくれると信じるようになった」とあります。
この[健康な心]とはどのような状態を指しているのでしょうか?
三つの状態が考えられます。
- 健康な心とはACになる前の状態に戻ること
-
健康な心とは単に嗜癖が止まっているだけの状態
-
健康な心とは回復する過程で平安と人生を生きる力が与えられ、「私はアダルトチルドレンであって良かった」と思える心の状態
1.の病的な人間関係嗜癖に陥る前の状態に戻ることが健康な心であるとするなら、すなわちアダルトチルドレンから解放されることを指しているとしたら、その人はもはや無力ではあり得ません。
なぜならその人はすでに人間関係嗜癖に陥らなくなっているわけであり、そのような人は神に頼る必要はなく、自力・我力(がりき)で十分に自分の人生をやっていくことが可能です。
2.のただ単に人間関係嗜癖が止まっているだけの状態というのは実は存在しません。
ACの中にはこのような理解を持っている人もおられるようですが、依存症とはそんな生易(なまやさ)しいものではありません。(だからこそこの見解を持つ人々はアダルトチルドレンが依存症であることを否定します)
脳の報酬系に依存症回路が出来、そこから「嗜癖を使っちゃえばいいんだよ!」とウソを教える強迫観念が襲ってきます。
そしてそのウソにコロッと騙されると、続いて渇望現象が襲ってきて、その人間関係が破綻するまで抜け出ることが出来ません。
これは立派な依存症です。
だから止まっているだけの状態などというものは存在しません。
もし本人がそう思っているなら、遠からず幻想であったことに気づくときがやってくるでしょう。
では3.の平安と力が与えられ、自分がACでよかったと感謝できる心の状態とはどのようなものでしょうか?
それは一言で言うと、霊的に目覚めた状態を指しています。
霊的目覚めは一瞬のうちに起きる宗教的な経験ではなく、継続的な人格の変化です。
もちろん継続的ではあっても、人格の変化が起きる最初の起点というものが存在し、多くの人はその起点を指して霊的目覚めと言っています。
では【霊的目覚め】とか【回復するのに十分な人格の変化】の中身は何かと言えば、それは【嗜癖を使うに至る心の構造】を正確に理解し、そのメカニズムをコントロール可能な状態にしていることです。
嗜癖を使うに至る心の構造はどのようなものか?
自分の性格上の欠点からくる行動パターンを使う | 利己的・不正直・身勝手&恐れ・配慮の欠如 |
---|---|
⇩ | ⇩ |
本能が傷つく | 自尊心・対人関係、物質面での安全・感情面での安全、公認の性関係・秘密の性関係、共存・安全・性の将来野心 |
⇩ | ⇩ |
感情が暴走する | 恨み・罪悪感・恐れ・後悔 |
⇩ | ⇩ |
不快感情から逃れるために病的な人間関係を嗜癖として使う | ACの問題行動 |
上記の表に書かれてあることを正確に理解することがステップ2において最も大切なことです。
正確に理解できれば回復への強い意欲が湧き出てきます。
もし強い意欲が湧き出てこないとしたら、この表に書かれてあることを正確に理解できていないのです。
(ありのパパ自身はステップ10をやっている間に[嗜癖を使うに至る心の構造]を正確に理解し、回復への強い意欲が湧いてきました。
ですので強い意欲が湧き出てくるまでステップ2に留まって、次に進まないというのは得策ではありません)
そしてステップ4・5では【嗜癖を使うに至る心の構造】を[正確に理解する]というところを超えて、[身に付ける]領域に進みます。
[身に付ける]とはこの理解が腹落ちするということです。
さらに今度はステップ10の日々の棚卸しで[身に付ける]領域を超えて[自由自在に使いこなす]領域へと歩みを進めます。
ありのパパは「この構造をもっと早く知っていればなぁ〜」と実感しています。
しかし「若かった頃の自分に誰かが教えてくれれば、こんなふうにはならなっかた」という感慨は共感はできますが、正しい理解とは言えません。
なぜなら【無力を認める】ということ一つを取ってみても、本人が無力を痛感していなければ、周りがどんなに「無力とはこういうもの」と説明しても、腑に落ちることは決してないからです。
[ステップ2の質問]
- 解決は何ですか?
- 問題が二つあるように解決策も二つあると言われます。それは何と何ですか?
ACのステップ3
アダルトチルドレンがステップの3で取り組まなければならないことは何と何でしょうか?
標準的な12ステッププログラムの視点から見て、出来る限り、取りこぼしなくまとめました。
①決心すること
ステップ3には「自分の意志と生き方を自分なりに理解した神の配慮に委ねる決心をした」とありますが、いったい何を決心したのでしょうか?
もちろん[自分の意志と生き方]を委ねる決心をしたのですが、理解がそこに留まってしまうと回復は絵に描いた餅になってしまいます。
12ステッププログラムを作った人たちがどのような考えで[自分の意志とを生き方を委ねる決心をした]と書いたのかを推測することが大切です。
そのために最も良い方法は12ステップの教科書であるビッグブックに当たることです。
ビッグブックには疑いようもなく明確にその決心とはステップ4から9の【行動のプログラム】に取り組むことであり、霊的に目覚めたあとはステップ10から12の【続けるステップ】に生涯かけて取り組み続けることであると書かれています。
ところで、ありのパパは約40年間[決心だけ]をし続けました。
当時は「なぜ自分の人生は変わらないのだろうか?」と訝(いぶか)しんでいましたが、今は人生が変わらなかった理由が明確に分かります。
それは[決心だけ]して行動のプログラムに取り組まなかったからです(笑)。
キリスト教などでも「行いの伴わない信仰は死んだ信仰です」[新約聖書ヤコブの手紙]と言われますが、12ステップが言わんとするところは【善い行い】などの漠然としたものではなく、明確に【回復するための行動プログラム】に取り組むことを指して「決心した」と言われています。
ですから「ステップの1から3まではやったんだけどね。機会があったらステップ4以降にも取り組んでみたいと思っている」などという言葉は戯言(ざれごと)にしか過ぎないのです。
ステップ1は認めるだけ、ステップ2は信じるだけ、ステップ3は決心するだけであり、一分あれば全部できてしまいます。
事実、ビル・ウィルソンは飲んだくれのアルコホーリクにそのように対応し、目を白黒させている相手に「じゃ、来週また来るから、それまでに棚卸し表を書いておくように」と言い残して去っていくのでした。
②自己意志とは何か?
皮肉めいた言い方をすると自己意志とは自分の性格上の欠点を使って自分の本能を傷つける人格的主体を指します。
人格は考え方・感じ方・行動の仕方の三つによって構成されています。(ACのための12のステップ44頁下から3行目)
長い間の【行動の仕方】の積み重ねによって【考え方・感じ方】が出来上がります。
これはどういうことかと言いますと、子供時代から自分の期待に反し、裏切られ続ける経験をし続けると、次第に「人は必ず私を傷つける」「人はいつかは私を見捨てるに違いない」という病的な【考え方】を持つに至ります。
【感じ方】とは人がひそひそ話をしていると「きっと私の悪口を言っているのに違いない」と感じたりすることです。
ACは「他の人だってそう感じるに決まっている」と思い込んでいますが、現実は決してそんなことはありません。
中にはひそひそ話をしているのを見ると「誰のうわさ話をしているのかしら?私も早く話に加わらなければ!」と感じる人もいるのです。
上記のたとえ話に登場するACは嗜癖として被害者意識(ACの問題の5番目)を使っているのであり、固着した恐れが動機となって身勝手・不正直な行動をした結果、共存本能の自尊心や対人関係、安全本能の感情面での安全が傷つきます。
本能が傷つくと感情が暴走します。
その結果、恨み・罪悪感・恐れ・後悔などの不快感情から逃れるために「私は被害者だ。私はなんてかわいそうなんだ」という嗜癖に逃げ込みます。
なぜならその間だけ、不快感情を感じないですむからです。
この説明をお読みになるとお分かりのように依存症(嗜癖に逃げ込む病気)は使う嗜癖は異なっても構造はみな同じなのです。
アダルトチルドレンとは病的な人間関係を嗜癖として使う依存症者なのです。
病的な人間関係の一覧表は以下をご参照ください。
③本能とは何か?
アダルトチルドレンに「あなたに本能はありますか?」と尋ねて、「もちろんあります」と本心から答えることの出来る人は少ないのではないでしょうか?
なぜならACは普段から「私には本能なんかございません。謹厳実直(きんげんじっちょく)に生きております」みたいな人が多いからです。
これを非ACからみると「なんと偽善的か!」と感じるのですが、本人は悪気なくそう思っているのですから仕方ありません。
ありのパパも中間施設で12ステップを学んでいるときに一番抵抗を感じたのがこの部分でした。
性本能のところに来たときには耳をふさぎながら、教室を飛び出そうかと思ったほどです(笑)。
しかしながら本能の別名は【自分自身】であり、【自分】が【自分自身】を粗末に扱ってきたのが、他ならぬACなのですから、ACが回復しようと願うならどうしてもこの【自分自身】との関係を健康な状態に戻す必要があります。
もう一つの注意点は12ステップが教える【本能】は他のカウンセリングや心理学が言うところの本能とは異なることです。
この点を間違わないようにする必要があります。
共存本能【自尊心・対人関係】
自尊心とは別名・自己評価と言います。
良い自己評価とは「自分はよくできている。ありのままでいい」と思えることです。
反対に悪い自己評価とは「こんな自分では生きている価値がない」と思い込むことです。
良い自己評価を持つと自尊心は爆上がりし、悪い自己評価を持つと自尊心は傷つき、恨みなどの感情が暴走します。
対人関係とは文字通り人間関係を指します。
なぜ人間関係が傷つくと共存本能が傷つくかと言うと、どんな人にも「周りの人々と仲良くやっていきたい」と願う気持ちがあるからです。
ではトラブルばかり起こしている人にも「周りの人とうまくやっていきたい」と願う本能があるかと言うと、すべての人にあります。
ただそれが表に出ているか、いないかの違いがあるだけです。
ありのパパは内心で「人間関係なんてこんなもんさ」と達観したところがありました。
達観というと聞こえは良いのですが、これは重大な問題を含んでいました。
なぜなら「こんなもんさ」と思っていると、本能への手当を怠るからです。
顕在意識では「そんなもんさ」と達観したふりをし、意識下では本能が傷つき放題という悲惨な人生を何年もの間続けていれば依存症にもなるというものです。
ですからACはこの本能が傷つくということを当たり前のように受け止めてはなりません。
本能が傷ついたら必ず手当をすることが必要です。
そうしないと感情が暴走し、不快感情から逃れるために嗜癖を使わざるを得ないところに追い込まれます。
安全本能【物質面・感情面】
共存本能が周りの人々との関係に焦点が当たっている本能であるのに対して、安全本能は自分自身が安心・安全に生きていきたいと願うところに焦点が当たっている本能です。
たとえば愚かな人に迷惑を掛けられると自分の安全が脅かされたと感じる人がいます。
しかし「その人は愚かな人」だと分かっているので、自尊心は傷つきません。
逆のケースもあります。
対人関係は傷ついたが、安全は傷つかなかったという場合です。
どんなときにどの本能が傷つくのかを特定することはとても大切です。
これを明らかにするのがステップ4・5の棚卸し作業です。
性本能【公認の性関係・秘密の性関係】
性本能とは特定の人と肉体的に一つになりたいと願う本能です。
(中間施設では性本能を「子孫を残したいと願う本能」と教えられましたが、現代の社会事情を考慮して上記の表現に変更しています)
将来野心【共存・安全・性】
将来野心とは共存・安全・性の本能が将来に渡って充足することを求める野心です。
たとえば職場に口うるさい上司がいると、自尊心や対人関係、安全本能の感情面が傷つきやすくなります。
そして何年にも渡って一緒に仕事をしないといけないと思うと将来野心の共存と安全が傷つきます。
しかし来季は上司の転勤が決まっているなら、将来野心はそこまで傷つきません。
④神に人生を委ねることができないもう一つの理由【親替え】
「神に委ねることができない」というとき、そこには二種類の人々がいます。
一つ目は宗教的なものに違和感や嫌悪感を感じる人々です。
この人々は世俗的な生き方を選び取っているのであり、ある面では筋が通っています。
中には宗教団体に属する人によって傷つけられた過去があり、その故に宗教的なものに拒絶反応を示す人々もおります。
この記事で問題にしようとしているのはそのような人々ではありません。
ここで問題にしようとしているのは「委ねたいのはやまやまだが、どうしても委ねることができない。そもそも『委ねる』ということの意味が分からない」という人々です。
もちろんその人々とはアダルトチルドレンのことです。
アダルトチルドレンが委ねようとしても委ねることができないのは自分の中に棲む[もう一人の自分]が邪魔をするので神に自分の人生を委ねることができないからです。
このもう一人の自分を【毒親ロボット】と呼びます。
子供時代に「あんたは本当にダメな子ね」とか「お前がいなければ私はもっと自由に生きることができた」とか言われて育つと、頭の中に毒親のテープレコーダーが回り続けることになります。
子供は大人になると【親離れ】をし、父や母は対等な存在となり、通常は支配や従属から脱します。
しかし何らかの病的な原因があると、その時期が来ても親も【子離れ】しないばかりか、子ども自身も【親離れ】できない状態が何年も、ひょっとしたら何十年も続きます。
この場合には子ども自身が自覚的に【親替え】する必要があります。
親替えとは自分の心の中から生物学上の親に出て行ってもらい、神に自分の親になってもらうことです。
親替えと聞くと難しく感じるかもしれませんが、親離れを自覚的にやることと考えれば比較的容易に理解できるのではないでしょうか?
実際問題としては自分の中の【毒親ロボット】が「こんなことをしたお前は生きていたらいけない。死んでしまえ!」と言ったら、毒親ロボットの口をふさぎ、神の意志を知り、それを実践する力だけを求めることにより、新しい回復人生を生きることです。
そのすべての営みを指して【親替え】と言いますが、その初発はステップ3の「自分の意志と生き方を自分なりに理解した神の配慮に委ねる」ところからスタートします。
ACが自覚的に親替えをせずにステップ4以降に進んでしまうと、何をやってもうまくいきません。
どうしてかというと、棚卸しをすると「私が悪かったんです」と言い、「何が悪かったんですか?」とお聞きすると、一瞬の沈黙の後に「とにかく全部、私が悪いんです」と応えます。
これでは霊的に目覚めることは期待できません。
回復人生とは自己意志と神の意志が協働で自分の人生を生きることですが、そもそも自己意志が他者に操られていては協働もクソもありません。
まず、自己意志の主導権を取り戻することです。
そうしてから神の意志と協働で自分自身の人生を歩み始めるなら必ずうまくいきます。
⑤自分なりに理解した神
「私には問題はあるが、依存症ではない」とヌケヌケと言う人が、無力を認めていると言えるでしょうか?
ありのパパは決してそのようには思いません。
この人にはまだ乗り越えなければならない問題があり、それまでは決して無力を認めたとは言えないというのがありのパパの理解です。
無力を認めた人にとって神を信じることは難しくありません。
なぜなら「何だっていいから、助けてくれ〜!」と叫んでいる人が、神を信じるかどうかを迷うはずがないからです。
聖書に「神を見た者は一人もいない」とあります。
私もあなたもその他のどんな人も、神を見た者は一人もいないのです。
だ・か・ら、あなたが信じることが出来るものなら、何だって構わないのです。
ただし[無力を認める門]から入ってこない者はどんなにあがいても信じることはできません。
「狭い門から入ってきなさい」(聖書)
[ステップ3の質問]
- 決心したとありますが、何を決心したのですか?
- それは具体的には何をすることですか?
- ACがステップ3でやるべき親替えとは何ですか?
ACのステップ4・5 いよいよ人生が変わる本番です!
『決心』しただけの状態でシラフを続けることは不可能です。(ビッグブック92頁9行目)
回復は決心した結果としてではなく、行動のプログラム(ステップ4〜9)に取り組んだ結果として起きるものだからです。
①棚卸しの準備
棚卸し作業に取り組む前に〈何のために私は棚卸しを行うのか?〉という質問への答えを持っていることが棚卸しをうまく行かせるために重要です。
以下にありのパパが考える棚卸し作業を行う目的を記します。
- 【性格上の欠点を使ったので本能が傷つき、感情が暴走し、不快感情から逃れるために嗜癖を使う】という依存症の基本構造を理解する。
-
自分の中から不快感情をなくす(なぜなら不快感情から逃れるために嗜癖を使うから)。
-
自分の人生を支配する古い行動パターンを発見し、対極にある新しい行動パターンを創出する(これをステップ6・7で実践します)。
-
性格上の欠点を使わないでいることは自力(じりき)・我力(がりき)ではできないことを実感し、神の助けが求める。
-
ありのままの自分を認め、本音で他者と関わる最初の関係がステップ5の『もう一人の人(シェアリングパートナー)』との関係であることを体験する。
-
霊的に目覚める。
以上がありのパパが考える棚卸しの目的です。
②恨みの棚卸し
ありのパパが多くの依存症者の方と接して実感することは、ご自分が依存症者であることを否定する人は少ないが、恨みの感情を持っているのを否定する人は多いということです。
ありのパパ自身は自分が依存症であることも否定していましたし、恨みの感情を持っていることも全否定していました。
前者の理由は【依存症は否認の強い病気】という説明が可能ですが、後者はキリスト教の信仰が大きな影響を与えていたと思います。
なぜなら聖書には「恨んではならない」とあるからです。
もちろんこれは「恨みの感情を否認せよ」と教えているのではなく、「恨みの感情があることを認めた上で、その恨みを捨てよ」と教えているのであり、ありのパパが間違って解釈したに過ぎません。
とはいえ多くのキリスト者に接してみて、ほとんどと言っていいぐらいの方がご自分が恨みの感情を持っていることを否認しておられました。
二番目はアダルトチルドレンの傾向を持つ依存症者です。
この人々は棚卸しをする時に「私は恨んでないんですけどね〜」と言いながら、棚卸し作業をします。
ありのパパは内心で「ではなぜ[恨み]の棚卸し作業を行うのか?」と訝(いぶか)しむのです。
三番目は日本文化・日本社会の影響を強く受けていると思われる人々です。
日本文化のもとでは「水に流す」とか「過去を忘れる」と言われます。
しかし実際には「水に流す」ことも「過去を忘れる」こともできる人は一人もいないのです。
それができるのは加害の立場に立つ人であって、被害を受けた人には決してできることではありません。
そのため「ゆるせ!」という文化的・社会的圧力を受けると[ゆるした振り]をすることになります。
これが恨みの感情を否認する理由です。
③恐れの棚卸し
恐れには不快感情としての恐れと、性格上の欠点としての恐れがあります。
不快感情の恐れは[感情]であり、性格上の欠点としての恐れは[考え方]です。
ACにとっての【性格上の欠点としての恐れ】とは【固着した恐れ】です。
固着した恐れとは人々の何気ない振る舞いを見てほとんど自動的に「私を傷つけようとしている」「私を見捨てようとしている」「私に対して不満を持っているにちがいない」と思い込む【考え方・感じ方・行動の仕方】です。
人格は【考え方】【感じ方】【行動の仕方】の三つによってなる1 ものです。
リカバリーダイナミクスの棚卸し表の第四列の[こちらの側のあやまちの正確な本質]の三番目は[身勝手・恐れ]です。
これの意味は恐れが動機となって身勝手行動が起きるということです。
恐れが動機になっている行動には主に二つあります。
一つは相手との関係を維持したいので心ならずも本心とは異なる対応をすることです。
これを不正直と呼びます。
この問題は何かと言うと、不正直な対応をしたのは自分であるにもかかわらず、相手に不満を感じることです。
相手に不満を感じるということはつまり自分の本能が傷つくということです。
この時に傷つくのは共存本能の自尊心・対人関係、安全本能の感情面だったりします。
「その時に自分の本心を言えていたら今でも相手を恨んでいたと思いますか?」とお聞きすると、多くの方が「いいえ、恨んでいないどころかそのことを覚えてさえいないと思います」と答えられました。
「ということはつまり、あなたがその場で正直にご自分の思いを言えなかったので相手を恨んだのだとしたら、恨んだ原因は相手にではなく、あなたの不正直にあると言えないでしょうか?」と重ねてお聞きすると、ほとんどの方が「私もそう思います」と言われました。
もう一つは身勝手行動です。
不正直が相手との関係を切りたくないので心ならずも本心とは異なる対応を取るのに対して、身勝手は(恐れが動機となっているのは不正直と同じですが)相手との関係を切り捨てる方向にベクトルが働きます。
「どうせ分かってくれない。もういいも〜ん!」ってな感じです。
ACが棚卸し表を書くと、他の依存症者と比べて数が少ないのが一般的です。
これは恐れが動機の身勝手行動によって相手との関係をトラブルになる前に切り捨てていたからにほかなりません。
人間関係が長続きしないことを悩むアダルトチルドレンは多いですが、原因はこんなところにあったりします。
④性のふるまいの棚卸し
ビッグブックの棚卸しについての箇所を読んでいて意外に感じるのは性のふるまいについての記述が多いということです。
その理由は性の問題は多くの人にとって微妙な問題であり、考え方やスタンスに大きな幅があるからです。
ある人は超保守的ですが、ある人は呆れるほどに開放的です。
ビル・Wはそのどちらにも引っ張られることがないようにと言っています。
リカバリーダイナミクスの考案者であるジョー・マキューは「性の棚卸しを始める前は多くの人は『自分は性的な異常者にちがいない』と思い込んでいるが、実際に棚卸しをやってみると自分は異常ではなかったと気づく」と言っています。
ではACはどうかというと、多くのACが異常でも何でもないことを異常だと思い込んでいる場合があります。
たとえば「あの人と恋仲になれると良いな」と心の中で想像することを病的な妄想であると感じるACがいます。
しかしこれは違います。
「あの人と恋仲になれるといいな」と単に心の中で思うだけなら、それは微笑ましい光景と言えるでしょう。
病的もしくは異常の範疇に入るのは恋仲になるために自分は何も努力しようとしない場合です。
また奥さんや子供がいるにもかかわらず、見ず知らずの人に「あの人と恋仲になれるといいな」と思うのは性的な嗜癖として使っていることです。
また「自分が好きだから当然相手も私を好きになるべき」と考えるなら異常です。
しかし「好きになってくれたらいいな〜」程度であれば健全の範囲と思われます。
性の振る舞いの棚卸しと性依存症との関係
ビル・Wは自分の性の有り様(ありよう)は自分で決めるべきであり、人に決めさせてはならないとします。
多くの人が「自分には性的に異常なところがある」と考えていますが、ほとんどは間違った思い込みでしかありません。
しかし中には性的なことを嗜癖として使う性依存症の人々も確かに存在します。
では性依存症とそうでない人との区別はどのようにすればよいでしょうか?
性依存症における嗜癖には三種類あります。
- 法律に触れるような行為(痴漢・露出・つきまといなど)
- 法律には触れないけれども家庭が壊され、人生を棒に振ることになる行為(不倫・浮気・出会い系サイトの使用など)
- 法律にも触れないし、家庭も壊されないかもしれないが、純然たる性的嗜癖行為(強迫的なマスターベーション・長時間のネットポルノの視聴・性的妄想をもてあそぶなど)
上記のことがない限りは性依存症の疑いを考慮する必要はないと、ありのパパは考えています。
⑤自己開示
ありのパパ自身がステップ5の棚卸し作業をやったときは否認のかたまりと言っていい状態でした。
「恨んでませんけど〜」「恐れてませんけど〜」「迷惑かけられたのは私のほうですけど〜」みたいな感じで、何とも歯車が噛み合わない棚卸し作業でした。
こんな状態でシェアリングパートナーはよく付き合ってくださったと感謝しています。
自分がシェアリングパートナーをやるとき、相手の方がありのパパと同じように「恨んでないんですけど〜」と言っても腹も立たないし、ガックリ来ることもありません。
なぜなら自分と同じことを言っているだけだからです。
それにしてもACにとって自己開示は重要です。
ACの方に「あなたが使っている嗜癖は何ですか?」とか「あなたが無力であるのは何に対してですか?」と質問して、まともに答えることのできるACはほとんどいません。
「なにかしら?」などと答える人はいませんが(ごく少数いました)、多くの方は絶句されます。
これは心の深いところで否認しているのが原因の一つですが、もう一つは自己開示が苦手すぎて自分でも自分のことがわからなくなっているのが原因です。
ミーティングで自分の話をするとはじめのうちは建前ばかりの話ですが、いつかそれも底を付くときがやってきます。
建前の話が底をつくと、ミーティングに来なくなる方もいますが、それでもなお参加し続けていると段々と本音の話が出てきます。
だからこそミーティングに参加して仲間の話を聴き、自分の話をするという営(いとな)みが大切なのです。
(これが〈聞くだけの参加〉がとても残念である理由です)
⑥過ちの正確な本質
ACにとっては「過ちの本質と言われても、私は被害者だし〜」と思っているものです。
実はありのパパがそう思っていました。
しかし否認していたので、気づきませんでした。
それでも「100日間、日々の棚卸しをやってくださいね!」と中間施設の職員に言われたので、仕方なく(やらないとスリップするから)やっていました。
そのうちに100日が終わる頃に、「いや待てよ。自分、なんて利己的なんだ!」と思えるようになりました。
ついに被害者意識を嗜癖として使うのをやめる日が来たのでした。
過ちの正確な本質とは性格上の欠点である【利己的・不正直・身勝手&恐れ・配慮の欠如】を自分が使ったのでトラブルに見舞われたのだと納得することです。
しかしこれも真に納得することなどは人間にできることではないと、ありのパパは考えています。
つまづくたびに、日々の棚卸しをすることによって原因は自分の性格上の欠点を使ったことにあると腑に落ちることを繰り返していくことが私たちにできることです。
最後に
ステップ4・5の棚卸しは基本的に人生に一度限りのものです。
中には何回もされる方がいます。
その理由は「人生が変わらないのは棚卸しがうまくやれてないから」と考えるからです。
しかしそうではありません。
人生が変わらないのはいつだってステップ6・7が不充分だからです。
【古い行動パターンを使わない決心】(ステップ6)と【新しい行動パターンだけを使って生きていく決心と神の助けを求めること】(ステップ7)を実践すればするほど人生は徐々に変わっていきます。
ミーティングでは霊的に目覚めた仲間が針小棒大(しんしょうぼうだい)に分かち合うことが多くあります。(それは誰あろうありのパパです)
それを鵜呑(うの)みにして「ほぉ〜、霊的に目覚めるとそんな大変革が訪れるのか?!」と受け止めてしまい、自分も霊的に目覚めたら当然そのような変化が訪れるものと思い込んでしまう危険があります。
しかし心の変化(霊的目覚め)は一瞬ですが、人生の変革は生涯続いていくプロセスです。
新しい行動パターンを使うことなしに人生を変えようとしていませんか?
それは白昼夢に過ぎません。
ゴールを目指して一心に走り続けるためには、足元の「今日一日だけ」に焦点を当てて神の力を求める営みが必要です。
そうしないと足元の小石に足を取られて転んでしまいます。
「おかしいな〜。何で私の人生うまく行かないのかしら?」
「いやいや、うまく行くも何も新しい行動パターンを使ってないもの!」
人生を変えるカギは今日一日の自分の行動パターンをどの程度使ったかによると知れば「じゃ、仕方ないな。でも今に見ておれ!」と思えるものです。
ACのステップ6・7 無力を認めていると新しい行動パターンがうまく行く
アダルトチルドレンにとっては変えていこうとする意欲を持つ前に、「自分には自分を変えられない」のを再確認することがとても大切です。
なぜなら「変えていこうとする努力」そのものがACの人生を行き詰まらせる原因になっているからです。
闇雲に頑張る努力は百害あって一利なしです。
①変えていく意欲
ACにとって最後のあがきがステップ6・7の新しい行動パターンだったりするのはよくあることです。
もちろんそれでは人生は1mmも変わりません。
無力を認め、ありのままでいいと受け入れ、神の力でおまけの人生を生きるなら、新しい行動パターンの実践は楽しくて仕方のないものになります。
しかし自力・我力で自分の人生を変えようとするなら、その実践は阿鼻叫喚(あびきょうかん)の世界そのものです。
ご自分がどちらに属しているかを見極めるのは簡単です。
あなたが微笑んでいるなら、笑っているなら、前者。
怒り狂っているなら、ストレスをためているなら後者です。
アダルトチルドレン&共依存症者はストレスをためにため、「おかしいな〜。こんなはずじゃないのに?」といぶかしみながら日々の棚卸しに取り組むと自分の問題が明確に見えてきます。
そして最終的に[自分が笑えてくる]というところに達します。
これでよいのです。
だからACには狂気と正気が交互にやってきて、狂気がやってきたときには強迫観念が教えるウソを見破り、正気のときには平安を楽しむのです。
◎✖ | 古い行動パターン | 新しい行動パターン |
---|---|---|
自力・我力 | ✖自力・我力で古い行動パターンを実行したので人生が行き詰まった | ✖神の力がなくては神の意志を実行できない |
神の力 | ✖古い行動パターンに神の力が与えられることは決してない | ◎神の力で神の意志を実践すると人生がうまく行く |
②短所
短所とは性格上の欠点のことであり、意味しているものは全く同じです。
12ステップに取り組む人々の中で、【短所】と【性格上の欠点】の違いを気にする方が少なからずおられるようです。
しかしビッグブックで使われている【短所】と【性格上の欠点】という言葉は同じことを違う言葉で言い表しているのにすぎません。
だからそもそも同じことを指しているにもかかわらず、あたかもこの二つが違うことを指していると考えるのは意味のないことです。
私たちが持っている短所には多くのものがありますが、それらのものは集約すると四つになります。
- 一つ目が利己的
- 二つ目が不正直
- 三つ目が恐れが動機の身勝手
- 四つ目が配慮の欠如
短所がどれだけ多くあっても集約するとこの四つのうちのどれかに当てはまります。
利己的の文字通りの意味は 自分の利益だけを考えることとなります。
不正直とは相手との関係を壊したくないので 自分の本心とは異なる対応をすることです。
身勝手とは 人に傷つけられるのが怖いので人に傷つけられる前に 自分から相手を傷つけたり相手との関係を切り捨てることを言います 。
ここで明らかなように不正直は相手との[関係を保ちたい]ために本心とは異なる行動を取り、そして身勝手とは 傷つけられたくないために 自分の方から相手との[関係を切り捨てる]というように ベクトルが異なります。
相手との関係を壊したくないので本心とは異なる行動をとるとき不正直とします。
相手との関係を切り捨てる方向にベクトルが働く時に取る対応を身勝手とします。
四つ目の配慮の欠如には様々なケースがあります。
たとえば利己的であると当然のことながら相手への配慮を欠きますので、利己的と配慮の欠如は1セットということになります。
あるいは利己的であっても正直であっても身勝手であっても、これらは全部私たちの心の中で起きていることであり、それが実際に相手との人間関係のトラブルに発展するのは、利己的・不正直・身勝手が原因によって生じた配慮の欠如によってトラブルが起きるということが言えます。
そして最後に考えられるケースは「どう考えても利己的でもなかったし不正直でもなかったし身勝手でもなかった」という場合です。
それにも関わらず相手との関係でトラブルが起きた場合には(12ステップは【他人は変えられない。変えられるのは自分だけ】というのが基本的な立場ですので)「こちらの配慮の欠如に問題があったということにしよう」とします。
なぜなら配慮の充実を完全に行うのは人間にはできないからです。
これは逆から言えば、いくらでも配慮を充実させることは可能ということでもあります。
例えばパートナーとの関係でパートナーが自分に不平・不満を言ったとします。
しかしどう考えても自分は利己的でもなかったし、不正直でも身勝手でもなかった。
このような場合は「やっぱりパートナーが悪いんだ」としないで、「自分の側に配慮が欠けているところがあった。よし、ではもっと配慮を充実させよう」というふうに考えるわけです。(もちろん共依存的な関係になってはなりません。共依存にならない程度に配慮を充実させていきます)
③忍耐と寛容
a.我慢しないで忍耐する
「私さえ我慢すれば」というのは依存症になる人の常套句です。
「私さえ我慢すればよい」と考えつつ、気が付いてみれば病的な人間関係を嗜癖として使う依存症者(アダルトチルドレン)になっていたのではないでしょうか?
だから二度と再び我慢してはなりません。我慢は百害あって一利なしです。
我慢しないで忍耐しましょう。
我慢というと聞こえはいいですが、実際にやっていたのは古い行動パターンを使いつつ、それが原因で自分自身(本能)を傷つけ、感情を暴走させ、その結果溜まりに溜まった不快感情を病的な人間関係という嗜癖によって解消させていたのに過ぎません。
これに対して忍耐とは新しい行動パターンをうまく行っても行かなくても(言い方は悪いですが)バカの一つ覚えのようにあくまでも実践し続けることです。
まわりからすると我慢も忍耐もあまり変わりがないように見えるかも知れません。
しかしやっていることは全く逆のことですので、真逆の結果が現れてきます。
我慢のほうは依然として同じ行動パターンを使っていますから人生は代わり映えしないままですし、溜まりに溜まった不快感情を病的な人間関係で解消するという極めて後ろ向きなままです。
忍耐のほうは新しい行動パターンを使っていますので本能の傷つきが止みます。
本能の傷つきが止めば感情の暴走も止まります。
その結果不快感情が消失しますから嗜癖を使う理由はなくなります。
しかし脳の報酬系にできた依存症回路は死ぬまでなくなりませんから、強迫観念(誘惑)と渇望現象(ブラックアウトするまでやめられない働きをするもの)が襲ってくることに変わりはありません。
ただ、強迫観念がささやく「孤立すればいいんだよ」とか「特定人物に過度に依存しよう」とか「周りの人々に病的に承認を求めよう」などのウソを容易に見破ることができるようになるということです。
霊的目覚めは2・3ヶ月のうちに得ることができますが、人生そのものが変わってしまうには長い年月が必要です。
一朝一夕に変わるものなどはこの世に存在しないと心を定めておくことが大切です。
b.完全になろうとしてはいけない
ACが完全になろうとする理由はいくつかあります。
一つは無条件で与えられるべき愛が子供時代に与えられなかったからです。
毒親はこう言います。「お前のできが悪いから、お前を叱るのだよ」
大人になった今であれば「できが悪いのは誰?お前だろ!」と言い返すことができるのですが、子供にそれを期待することはできません。
それで子供時代に身に着けた「私がいい子であれば万事うまく行く」という間違った思い込みを大人になっても(無意識の領域で)持ち続けます。
これで人生がうまく行けば奇跡ですが、そのような奇跡は決して起こるものではありません。
二つ目はACに特有の【固着した恐れ】です。
固着した恐れとは「人は私を傷つける」「人はいつかは私を見捨てる」という根拠のない考え方です。
心の健康な人にもこのたぐいの恐れは存在します。
それが用心深さや用意周到さに繋がります。
しかしこれも度が過ぎると大きな害をもたらします。
たとえばACは長続きする人間関係を持てない人が多くいますが、その隠れた本当の理由は「相手に見捨てられる前にこっちから見捨ててやろう」という間違った思い込みによります。
これを「恐れが動機の身勝手行動」と呼びます。
ACが12ステップに取り組むとこの完全主義に知らぬ間に取り込まれてしまう危険があります。
どういうことかというと「回復した私」を演じてしまうということです。
そしてその裏では日々の棚卸しをするとできていない自分ばかりが目に入ってきて、そんな自分を責め抜きます。
これらはみな「完全でなければ私は生きていたらいけない」という間違った思い込みによるものです。
そういうときには「ステップ1で無力を認めたんとちゃうんかい?!」と自分に言い聞かせ、自分自身に向かって「あなたはありのままでよい。そのままのあなたでOKだよ」と言ってあげることです。
④変えていく勇気
ステップ6はやりたいことをやらないステップ、7はやりたくないことをやるステップと言われます。
ステップ6・7が人生を変えるプログラムの頂点とも言われます。
しかし意外なことにビッグブック日本語版は全部で280頁ありますが、ステップの6・7は半ページが割り当てられているだけです。
普通に考えるなら「人生を変えるプログラムの頂点ならもっとページ数を割いてもいいんじゃないの?」と感じるでしょう。
もしビッグブックに出版プロデューサーが関わっていたら「ビルさん、ステップ6・7をもっと増やしましょう。そのほうが読者にやる気を与えるでしょう!」と言ったかもしれません。
半ページしか割かれていない真の理由はステップ6・7にたどり着くところまでで人生が変わるための準備はほとんどが終わっているからです。
そうです。人生が変わるプログラムはステップ1から始まっているのです。
もしあなたがステップ6・7の実践によってご自分の人生を変えようとしておられるならどこかに間違いが潜んでいる可能性があります。
無力は認めているでしょうか?
やる気満々で「よ〜し。やったるで!新しい行動パターンを実践さえすれば人生は変わるんだ!」と思っていないでしょうか?
もちろんこれが「私にはできない。しかし神にはどんなことでもできるからである」と認め、信じた上での決心なら何の問題もありません。
【やる気】とはある面では曲者(くせもの)です。
なぜならやる気は完全主義から来ている場合もあるからです。
完全主義とは自分自身に向かって「お前は完全でなければならない。そうでなければ生きていてはいけない」と言うことです。
その延長線上にステップ6・7の新しい行動パターンがあるとしたら、とんだ茶番劇ということになります。
なぜ茶番劇かというと私たちはステップ1で「自分で自分を変えるのは土台無理!」ということが客観的に理解でき、その理解が腹落ちしました。
無力を真に認めた人々は「なぜ今まで自力・我力でなんとかしようとしたのだろうか?」と心底思うものです。
そして12ステップが教える回復の設計図を正確に理解すると回復への強い意欲が湧いてきます。
これは自力・我力で「新しい行動パターンを実践したら人生は変わる!」というのとは似て非なるものです。
そんなステップ6・7をいくら死ぬ気でやっても人生は変わるものではありません。
ACの二つの問題 | 二つの解決策 |
---|---|
強迫観念 | 共同体から受ける助けと支え&霊的目覚め(回復するのに充分な人格の変化) |
渇望現象 | 解決策はない |
ACのたった一つの問題の本質 | 解決 |
強迫観念と渇望現象に対して自分が無力であること | 自分を超えた大きな力 |
◎回復と平安と祝福を祈っています。