【見捨てられ不安】なら聞いたことはあっても【見捨てられる痛み】はお聞きになったことがないかも知れません。
この記事は【見捨てられる痛み】とは何かを明らかにし、そこから回復する方法を解説しています。
1.アダルトチルドレンが嗜癖として使う【見捨てられる痛み】とは何か?
人は誰でも「見捨てられないかな?」とか「もし見捨てられたら辛いな」と思っているものです。
ただこれが度を過ぎると病的になってしまい、人間関係を破壊し、その方の人生を台無(だいな)しにしてしまいます。
ではどんな状態が病的と言えるのでしょうか?
それは見捨てられるたびに「ほら見捨てられた」とか「やっぱり見捨てられた」と感じるようになると確実に病的と言えます。
これを(病的な)【見捨てられ不安】と言います。
ある人は「見捨てられると思うと不安になり、相手の言いなりになって」しまいます。
これはACの12番目の問題に当たります。
(この記事は見捨てられ不安からくる【人に依存することを嗜癖として使う】ことにではなく、【見捨てられる痛み】に焦点を当てています。見捨てられ不安からくる【人に依存することを嗜癖として使う】の記事をお読みになりたい方は[メニュー]⇒[アダルトチルドレン](パソコンの場合は右の+を二度タップ)⇒[統合作業]⇒[ACの問題12]をタップすると関係する記事をお読みになれます)
見捨てられ不安はどこからくるかと言えば、それは人格から出て来ます。
1 人格は【考え方】【感じ方】【行動の仕方】の三つによって構成されています。
【考え方】とは「人は必ず私を傷つける」とか「人は必ず私を見捨てる」という考えです。
【感じ方】とは「何気ない人の仕草(しぐさ)や眼差(まなざ)しが自分をバカにしているように感じる」とか、誰かと誰かがコソコソと話し合っていたり、目配(めくば)せしたりしていると「私の悪口を言っているに違いない」とか「私を陥れる相談をしているのだ」と強い確信をもって感じることです。
話が逸れますが、この説明をすると「本当に悪巧(わるだく)みの相談をしていたらどうするんですか?」と聞く人が必ずいます。
しかし問題の核心はそれが本当かどうかにはなく、あなたがその光景を見て恐れているというところにあります。
恐れがないなら、その光景を見ても恐れないし、かえって「私への贈り物の相談をしているのかしら?」と思ってしまうほどです(笑)。
話を元に戻します。
次の表は見捨てられる痛みを嗜癖として使う人の行動パターンを説明したものです。
人格〈考え方・感じ方〉=性格上の欠点〈恐れ〉 | 暴走するもの |
---|---|
固着した恐れ〈考え方〉 | 人は必ず私を裏切ったり、見捨てたりする |
⇩ | ⇩ |
固着した恐れ〈感じ方〉 | 何気ない仕草や振る舞いが悲劇の予兆に感じてしまう |
⇩ | ⇩ |
性格上の欠点の身勝手 | 傷つけられる前にこっちから関係を切り捨ててやる! |
⇩ | ⇩ |
本能が傷つき感情が暴走する | 恨み・罪悪感・恐れ・後悔 |
⇩ | ⇩ |
不快感情から逃れるために嗜癖を使う | 【見捨てられる痛み】を嗜癖として使う「やっぱり私は見捨てられた。この感情を十分味わおう。そうしている限り私は自分の問題を見ないですむから」 |
不快感情の具体例
- 恨み(よくも見捨ててくれたな)
- 罪悪感(私に問題があるから見捨てられたのだ。私は悪の張本人だ)
- 恐れ(私の人生は安全ではない。これからの人生もいつかどこかで破綻する!)
- 後悔(また同じ間違いをやってしまった。いったい私は何回失敗すれば気が済むのだ)
以上の説明で、見捨てられる痛みを嗜癖として使うのがアダルトチルドレンであると分かっていただけたでしょうか?(ACの問題の4番目)
ありのパパも人生を通して自分自身に「また見捨てられた。やっぱり見捨てられた」と言い続けてきた者のうちの一人です。
長い間、それが嗜癖であると気づくことが出来ず、58年間の人生を棒に振ってしまいました。
アルコール依存症や薬物依存症は命を奪う依存症であり、ギャンブル依存症は財産を奪う依存症です。
これに対してアダルトチルドレンの病的な人間関係を嗜癖として使う依存症は命を奪うことはありませんし、財産を奪うこともありません。
しかし人生を棒に振るのはどの依存症も同じです。
かえって他の依存症の現れが激烈であるので、気づきやすく何とかしようとする人が多いのに対して、目に見えない嗜癖を使う依存症者であるアダルトチルドレンは生涯を通して気づきを得ることが出来ず、その結果人生の終わりに「私の人生はこんなはずじゃなかった。私の人生のどこかが間違っていた」との後悔をもって人生を閉じなければならなくなるのです。
そういうわけで皆さんにはなるだけ人生の早い時点で気づいていただき、この嗜癖を使わずに人生を生きていただきたいと願っています。
次の項目では見捨てられる痛みのカラクリについて解説します。
2.見捨てられる痛みを感じる心のカラクリ
ありのパパが不思議だったことは自分だったら「見捨てられた!」と大騒ぎするようなことがあっても他の人たちは「残念なことには違いない。しかし私には私の人生があるように、他の人々にもその人自身の人生があるのだから、その決断を尊重する」と言って涼しい顔をしているのです。
ありのパパはその説明を聞いて「自分もその生き方に倣(なら)おう」と心から思いましたが、少しも実践できませんでした。
表面はできている振りをしましたが、心の中はあせりや自己憐憫で一杯でした。
理由は二つありました。
一つは見捨てられる痛みを嗜癖として使っていたからです。
嗜癖として使うというのは依存症ということであり、使わないでおこうと思って使わないでいることができるものではありません。
これが理解できない限り、依存症からの回復の見込みはありません。
もう一つの理由がこの項目で説明しようとしている[見捨てられる痛みが出てくるカラクリ]です。
見捨てられる痛みの裏には利己心がある
見捨てられる痛みを感じる裏にはカラクリがあります。
それは「人は私の思ったように動くべきである」という病的な思い込みです。
これを【利己的】とか【利己心】と言います。
私が自分自身のために生きていて、他の人のためには生きていないように、他の人々だって皆その人自身のために生きているのであり、私のために生きているわけではありません。
多くの人が自分が利己的であることを気づかずにいます。
その代表がありのパパです。
もしどなたかが「ありのパパさんは利己的ですね」と言ったら、思わず首を絞めたかもしれません(笑)。
しかし首を絞めるという行動に出るのは図星だったからです。
自分が利己的であることに気づかずにいるとどうなるかというと、日々の棚卸しがうまく行きません。
ありのパパは[恐れが動機の不正直行動]が自分の古い行動パターンとは分かっていましたが、この行動パターンで【見捨てられる痛み】を説明しようとしても「これが正しい説明である」という納得がありませんでした。
それが千回ぐらい日々の棚卸しをやったところで(約三年)、自分には隠されたもう一つの行動パターンがあることを認めざるを得なくなりました。
それが利己的振る舞いが原因の配慮の欠如です。
この場合の利己的振る舞いとは「人は私の思ったように動いて当然である。何なら私は何も言わないけど私の本心を忖度(そんたく)して動いてくれてもいいよ」と心の中で考えていることです。
このような【考え方】をしていると、人々のその人自身を第一とした当然の行動を見て、「この人は私を尊重してないから、こんな振る舞いができるのだ。私は傷ついた!」という【感じ方】をします。
見捨てられる痛みが出てくる原因 | 【考え方】【感じ方】【行動の仕方】 |
---|---|
⇩ | ⇩ |
利己心 | 【考え方】人は私の願ったように動いて当然である |
⇩ | ⇩ |
現実 | 人はみな自分自身のために行きているので、誰ひとり私のために動いてくれる人はいなし、希望を表明してないならなおさらである |
⇩ | ⇩ |
フィルターを通して見る現実 | 【感じ方】私をバカにしているから私の思った通りに動かないのに決まってる! |
⇩ | ⇩ |
傷ついた本能 | 自尊心・対人関係など |
⇩ | ⇩ |
暴走した感情 | 恨み・恐れなど |
書いている本人が笑えてくるくらい、自作自演の一人芝居ですね。
しかしこれに気づくのは至難の業(しなんのわざ)です。
ステップ4・5の棚卸しをやり、ステップ10の日々の棚卸しを忠実にやることのほかには自分の中にある利己心に気づくことは出来ないと、ありのパパは考えています。
自分の中の利己心に気づく方法
自分の中の利己心に気づく方法 | 結果 |
---|---|
⇩ | ⇩ |
人に指摘される | 思わず首を絞める(笑) |
ステップ5の棚卸し | 表面に出ている古い行動パターンが明らかになる |
ステップ10の日々の棚卸し | 何回もやることによって隠れたもう一つの行動パターンが明らかになる |
3.考え方・感じ方は変えられなくても行動の仕方は変えることが可能
人格は【考え方】【感じ方】【行動の仕方】の三つによってなるものだと言いましたが、前の二つは行動の仕方の積み重ねによって出来上がったものです。
ですから考え方や感じ方を変えようとしても一朝一夕にはいきませんし、かえってあまりにも変わらないのに失望することさえあるほどです。
世の中のカウンセリングや心理療法ではなかなか良くならない原因がここにあります。
カウンセリングなどではクライアントの考え方や感じ方を変えることによって行動の仕方を変えようとします。
それに対して12ステップは行動の仕方(行動パターン)を変えることによって徐々に考え方や感じ方を変えていくことを目指します。
通常の行動の仕方 | 一般的なカウンセリングや心理療法 | 12ステップ |
---|---|---|
考え方 | 考え方を変えることによって | 行動の仕方を変えることによって |
⇩ | ⇩ | ⇩ |
感じ方 | 感じ方を変え | 感じ方を変え |
⇩ | ⇩ | ⇩ |
行動の仕方 | 行動の仕方を変える | 考え方を変える |
ではどのようにして行動の仕方を変えていけるのでしょうか?
私たちの日常生活のほとんどは無意識に行われています。
歩行を例に取ってみると「えぇっと始めに右足出して、次に左足出して」と考えながら歩く人はいません。
無意識に右足と左足が動き、その間にも体全体のバランスをとっているのです。
私たちが行動するすべてのものは、初めに努力して自分のものにする段階があります。
自分のものにするとは無意識に行動できるようになるということです。
しかし無意識に行動できるようになった人に「今度は違うやり方でやってみて」と言うと、抵抗を示しますし、実際に変えるのは困難を伴います。
理由は無意識の行動の仕方とは実は考え方と感じ方から司令が出ているということにほかならないからです。
だから行動の仕方を変えるのは難しいし、一時的に変えてみても気がつくと元の木阿弥(もとのもくあみ)になってしまうのです。
無意識と意識の比率は9:1であると一般的には言われています(これには科学的な証明は何もありませんので「通常はそのように言われている」と受け止めてください)。
日常生活における行動の90%が無意識の領域で(すなわち考え方と感じ方から司令が出ている)行われ、残りの10%が意識の領域で行われると考えることができます。
通常は考え方と感じ方に支配されている行動パターンをどのようにしてフリーの状態にするかというと心のギヤーをニュートラルにすることによってです。
具体的な方法は《例外なく》《即座に》敬意と配慮をもって接することに全力を尽くすことによってです。
なぜ例外がないか言えば、例外を作るほどこちらに余裕がないからです。
「エェッと、この人には新しい行動パターンを適用して、あの人には適用してやらない」などと考えている間に、考え方と感じ方から指令がやってきて旧態依然の行動の仕方をしてしまいます。
またなぜ即座でないとダメかというとボサーっとしていては新しい行動パターンを使う前に考え方と感じ方から指令がやってくるからです。
私たちは生きている限り、バッターボックスに立ち続け、ピッチャーの投げる玉を打ち続けなければなりません。
だから「どうしようかな?」とか「今日は面倒くさい。やる気がしない」などと寝言を言っているヒマがないのです(笑)。
以下に私たちが使いがちな言い訳を載せます。
- 自分は被害者なのになぜこんなことをしなければならないんだ
- 孤立してるほうが楽だからこれまで通り孤立していよう
- 新しい行動パターンとは似て非なる『行き過ぎた責任感と過剰な世話焼き』を新しい行動の仕方の代わりに使おう
この言い訳をお読みになって気づかれた方もおられるかも知れませんが、これらはACが使う病的な人間関係嗜癖の一覧表に載っているものです。
他の依存症にはないACのお得なところは新しい行動パターンを使うことが即ACの嗜癖を使わないことと直結していることです。
他の依存症であれば新しい行動パターンと嗜癖を使わないことは、関係性はありますが、基本的には別々に考える必要のあるものです。
それに比べてACは《すべての人に敬意をもって接することに全力を尽くす》とき、ACの問題行動の一番目にある《人々から孤立することを嗜癖として使う》ことが全くなくなります。
それはそうです。自分から人々に「お元気ですか〜。調子はどう?」などと聞いて回るのですから、孤立しているヒマがありません。
どうでしょうか?このACの回復への本質的な解決策はお得ではないでしょうか?文字通り一挙両得(いっきょりょうとく)であり、ひと粒で二度美味しいのです。
このようにして新しい行動の仕方を使い続け、使い続けます。
そうすると「自分の力では決してできなかったことをハイヤーパワーがやってくださっている、ということが段々と実感されてきます」(ACのための12のステップ113頁4行目)
これが【回復するのに充分な人格の変化】とか【霊的目覚め】と呼ばれるものの実体です。
新しい行動パターンだけを使う | コイツには使ってやらないと躊躇する | 今日は気が乗らないし、たまには古い行動の仕方を使うか |
---|---|---|
⇩ | ⇩ | ⇩ |
本能の傷つきが止まる | 躊躇している間に考え方と感じ方から指令が届いてしまう | あくびをしている間に考え方と感じ方から指令が届いてしまう |
⇩ | ⇩ | ⇩ |
感情の暴走が止まる | 古い行動の仕方を使ってしまう | 古い行動の仕方を使ってしまう |
⇩ | ⇩ | ⇩ |
嗜癖を使う必要がなくなる | 自分は少しも変わっていないと悔やむ | おかしい。なぜ自分の人生は変わらないのかと寝言を言う |
⇩ | ⇩ | ⇩ |
自分の人格が変化していることに気づき、これが霊的目覚めであると理解する | 例外なく使うと決心しない限り人生は変わらないと理解する | 即座に新しい行動パターンを使わない限り人生は変わらないといつかは理解する |
【まとめ】
- 健全な範囲での見捨てられ不安は誰でも持っていますが、ACの見捨てられ不安は病的なものです。
この病的な見捨てられ不安から見捨てられる痛みを嗜癖として使うことが出て来ます。 - 見捨てられる痛みとは見捨てられるたびに「ほらな、やっぱり私は見捨てられた」と受け止め、痛みを感じることを心地よく感じることであり、これを嗜癖と言います。
- 見捨てられる痛みというと犠牲者の面ばかりかと思いがちですが、そうではなくその裏には「人は私の願ったように動いてくれて当然である」という利己的極まりない考えがあります。
その利己的フィルターを通して人々を見るとどうしたって「あの人は私をバカにしているからこんなことができるんだ」と感じてしまいます。 - 自分の中にある利己心に気づくためにステップ5の棚卸しとステップ10の日々の棚卸しを忠実にやり続ける以外の方法をありのパパは知りません。
見捨てられる痛みを感じることを嗜癖として使っていることに気づいたら、次は性格上の欠点からくる行動パターンを使わないことです。 - 通常は考え方と感じ方から司令が来て行動の仕方になるのですが、人生を変えようとするならギヤーをはずしてニュートラルにすることです。
具体的には新しい行動パターンを例外なく即座に実践し続けることです。
そうしたら徐々に考え方と感じ方が変わってまいります。
これが【回復するのに十分な変化】とか【霊的目覚め】と呼ばれるものの実体です。

◎回復と平安と祝福を祈っています。
- ACのための12のステップ44頁下から3行目 ↩