利己的生き方は自分のことだけを考えた生き方のように見えますが、実はそうではありません。
この生き方により傷つくのは他の誰でもない自分自身(本能)です。
この記事はそのカラクリを明らかにし、この問題の解決法を解説しています。
1.他者に対して利己的だと自分の自尊心が傷つく理由
利己的だと自尊心が傷つきます。
利己的とは「色々な事情があるんだろうな」と相手を察しようとしないことです。
自分が利己的だと相手がなぜ自分の思ったように動かないのかの理由が見えません。
それで的外れな理由を見つけ出します。
それが「あの人が私の思ったように動かないのは私をバカにしているからだ」という理由です。
バカにされていると感じると共存本能の自尊心が傷つき、不快感情の恨みが暴走します。
そうすると嗜癖に逃れるほかはなくなります。
これが利己的生き方を続けると嗜癖を使わざるを得なくなる理由です。
利己的(性格上の欠点) | 人々は私の期待した通りに動いて当然 |
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現実 | 私が自分自身のために生きていて他の人々のために生きてないように他の人々もその人自身のために生きているのであり、私のために生きているわけではない |
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結果として自尊心が傷つく | 私をバカにしているので私が期待したように動かないのだ! |
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本能が傷つき感情が暴走する | なぜ私は嗜癖を使いたくないのに嗜癖を使ってしまうのだろうか? |
相手の事情を察することができれば自尊心は決して傷つきません。
例えば職場でこちらが挨拶したにもかかわらず挨拶をし返さない人がいたとします。
そうすると相手を慮(おもんぱか)る心の余裕がないと「あの人は無礼な人だ。金輪際こちらから挨拶なんかしてやるものか!」と思ってしまいます。
その時に心の中で起きていることは性格上の欠点の『利己的』を使い、その結果として共存本能の自尊心が傷つき、恨みの感情が暴走するということです。
私が挨拶したら相手は必ず挨拶をし返すべき | 利己的思い込み |
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この無礼者! | 相手の行動の表面だけを見て、深層を見ていない |
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恨み・恐れが暴走 | 復讐としてのガン無視 |
この問題の解決策は相手を慮(おもんぱか)ることです。
この例でいえば「朝、家を出るとき奥さんと喧嘩したのかな、あるいは子供の具合が悪くて心配で、こちらの挨拶が聞こえなかったか、または挨拶し返す心の余裕がなかったのかな?」と考えることが相手を慮ることになります。
古い行動バターン | 新しい行動パターン |
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挨拶しても無視される | 挨拶しても無視される |
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私をバカにしている | 何かあったのかな? |
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こっちも挨拶なんかしてやるものか! | 大変な中を生きておられるのだな! |
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不快感情が発生し、嗜癖まみれの人生 | 不快感情は発生せず、共感が増し、配慮を充実させる |
本当の無礼者の場合はどうでしょうか?
昨日までは愛想が良かったにもかかわらずちょっとしたトラブルの結果、こちらの挨拶を無視するような場合です。
ありのパパなら怒鳴りつけてやります(笑)。
しかしそれでは怒り依存症者であるありのパパにとってはスリップになってしまいますので、別の手を考えます。
それはその方の『過ぎ越し方』に思いを馳せることです。
例えば職場で注意をすると黙り込む人がいたとします。
そうすると注意した人は「この人は私をバカにしているのか?」と感じます。
しかしその注意された方が自助グループのミーティングで〈黙り込む理由〉を話しているのを聞いていれば、決して「私をバカにしているから黙り込んでいる」とは思わず、黙り込むのは生育歴から来ていると(厳密に言えばACの問題の7番目1に当たる)理解できます。
これが相手の過ぎ越し方に思いを馳せるということです。
ちなみに聖書には『過越の祭』についての記述があります。
これはかつてイエスラエル人がエジプトで奴隷であったとき、約束の地であるカナンに向けて出発する時に神が命じた祭事です。
過越の祭りの目的はかつてエジプトで奴隷であった自分たちが無力であり、自分たちの人生がどうにもならなくなったことを認めるためでした。
次の項目では被害者意識があると相手を慮れないことを明らかにします。
2.被害者意識があると決して相手を慮ることができない
自分が無力であり、そのため自分の人生がどうにもならなくなったことを認めた人はごく自然に他者に対しても同じように受け止めるようになります。
しかしこのような自然な心の営みを妨げるものがあります。
それが被害者意識2(ACの問題行動の5番目)を嗜癖として使うことです。
被害者は泣きながら座り込んでいれば誰かが助けに来てくれます。
しかし被害者ではなく問題当事者であればいつまで経っても誰も助けに来てはくれません。
自分で解決するほかはないのです。
被害者意識に凝り固まって「私、かわいそう!」とアピールする生き方の対極は相手の過ぎ越し方に思いを馳せることです。
これは決断が必要な生き方ではあります。
なぜならそんな生き方をしたこともないし、「何で被害者であるこの私がそんなが骨が折れる面倒な生き方をしなければならないのか?」てな感じだからです。
しかし自分の自尊心をいつまでも傷つけておきたくないのであれば、相手の過ぎ越し方を慮る生き方への決断がどうしても必要です。

3.相手を慮る実践の勘どころ
①実践する決心をし、実行する力を神に毎日求める
人生を変えたいなら被害者意識を嗜癖として使わず、相手がどんな人生を歩んできたかに思いを馳せることです。
そうしたら自尊心の傷つきは止まり、恨みの感情は消えます。
そのような生き方を実践する決断は自分がしなければなりませんが、この生き方の実践は自分の力では出来ません。
それで「神の意志を知ることと、それを実践する力だけを求め」(ステップ11)ます。
「やっぱり出来ませんでした」と仰る人は実践する力を求めて毎日祈ることをしていないのではないでしょうか?
②出来ないのではない。実はその気がないのです。
「できない」という人の特徴は二つあります。
一つ目は諦めるのが早すぎます。
「あなたはまだ『できませんでした』と言えるほど努力をしていない。なぜ充分な努力をする前に『できない』と言うのか?」
二つ目は本音では新しい生き方をするよりも使い馴れた古い行動パターンを使い、古い生き方の世界に閉じこもっていたいのです。
もちろん私たちはどっちみちそんな者であり、決心したと言ってもたかが知れています。
しかし新しい行動パターンを実践しなければ嗜癖まみれの人生へとバックスライドしてしまうのが必定です。
それでも新しい生き方をしたくないというのであれば「どうぞ、ご自由に」と申し上げるしかありませんが、まともな人ならば誰もそんな選択はしないでしょう。
③12ステップの生き方を演じてはならない
「こういう生き方をするんですよ」と話すと、「はい、分かりました。その生き方をすればいいんですね」と返ってくるときがあります。
このやり取りには一見何の問題もないように見えますが、実は問題が大ありです。
なぜならいとも簡単に「その生き方をすればいいんですね」と言いますが、そもそも私たちは無力ですから新しい生き方を実践することは出来ないのです。
「嗜癖に対しては無力だが、新しい生き方の実践については無力ではないのでは?」と思われる方もいるかも知れません。
これは微妙な問題ですが、もし実践する力が私たちにあるなら、なぜステップ11に「私たちは神の意志を知ることと、それを実践する力だけを求めた」とあるのでしょうか?
私たちが演技する理由は実践できない自分をゆるし受け入れていないからです。
この「ありのままの自分を受け入れていない」ことが12ステップに取り組む中での最大の障害になっている方が多いように感じます。
私たちは無力を認めたのですから、「どんな自分でもオッケー!」と自分自身に言うことができますし、言わなければなりません。
これは言ってもいいし、言わなくてもいいという問題ではありません。
「どうしても言えません」と仰る方に申し上げたいことは「それで良いのです。受け入れられない、言えない自分を『それでいいんだよ』と受け入れ、認めることです」ということです。
これを生きている限り、し続け、し続けるのです。
そうして何年か経つと自己受容できている領域が増え拡がっているのを知るときが必ずやってきます。
【まとめ】
- 他者に対して利己的に振る舞っていると結局自分の自尊心が傷つく理由は相手が自分の期待したとおりに動かない原因が見えないからです。
自分の期待したとおりに相手が動かない理由が見えないと「私をバカにしているからだ」と的外れな理由を信じ込みます。
その結果自尊心が傷つき、恨みの感情が暴走し、嗜癖に逃れるほかはないという自作自演の一人芝居の生き方に堕してしまいます。相手の事情を察することさえ出来れば、こちらの自尊心は決して傷つかないのですが、それを妨げているのが被害者意識です。
被害者意識をもっていると「私は被害者なのに、何で相手のことまで慮(おもんぱか)ってあげないといけないのか!」ということになるからです。相手の過ぎ越し方に思いを馳せるのは自力・我力では決してできません。
どうしても神の力が必要です。
それで私たちは一日を始める前に毎日祈る必要があります。「できません」という人の特徴は二つあります。
一つはそもそもできないのに「自分はできて当然」と間違った思い込みをしていることです。
もしできるなら無力ではあり得ません。
もう一つは古い生き方に馴染んでおり、本音では生き方を変えたくないと思っていることです。私たちはステップ1で無力を認めたのですから「できない自分でオッケー!」とありのままを受け入れましょう。
《ありのまま》を受け入れない限り、継続的な回復は絶対不可能です。

◎回復と平安と祝福を祈っています。