『キリスト者の完全』の教理とありのパパの個人的体験

ホーリネス運動の中心的教理は「キリスト者の完全」というものです。

        

1.キリスト者の完全とは?

①それは救いの恵みとは区別されるべき、第二の恵みである。

②それは罪の性質を完全に除去する。(全き聖潔)「まったききよめ」と読みます。

またそれは私たちをして全き愛をもって奉仕させるようにさせる。

③それは聖霊の満たしと呼ばれる状態である。

④それはキリスト者経験の第二の転機と呼ばれるが、その前と後に漸進的聖化の御業が存在する。

⑤それは聖霊のパプテスマによってもたらされる。

        

2.キリスト者の完全の域に達するとどうなるか?

キリスト者の完全についての説明を聞くと、一般的なキリスト教会で育ったクリスチャンから見ると、なんのこっちゃという感じになるかもしれません。
しかし私(ありのパパ)は信仰生活のごく初期に、この教理を打ち込まれましたので違和感が全くなかったどころか、早くそうなりたいとさえ思いました。

そして実際に入信してから4年たったときに、このきよめの恵みにあずかりました。
聖霊に満たされると確かにおのが罪の性質を感じないほどに神の臨在を感じるのです。
また神が共におられるのを体験的に経験するわけですから、それはもうすごい伝道の力になるのです。

        

3.キリスト者の完全の教えの弱点

魂の深奥部で神の霊と交わるために、神の与えてくださった贈り物である異言の賜物を認めませんから、継続的にキリスト者の完全の状態を維持することが大変困難でした。
きよめられても育ってきた環境(これを生育歴と言います)の影響によって、さまざまな世俗的な誘惑を受けることがあります。
しかしその当時は罪の性質は取り除かれたと教えられておりましたので、自分のうちにうごめく罪の力を感じるたびに、これをどのように理解したらよいか本当に当惑しました。

        

4.罪と誘惑を区別する考え方は健全か?

ホーリネス運動の教会では、誘惑や弱さというものを罪そのものから区別し、罪の性質(原罪)が取り除かれた後も誘惑を受けるし、場合によっては罪を犯すことも可能性としてあると教えます。
この説明は論理的には理路整然としており、矛盾していません。
しかし、この教えを受け入れると、どういうわけか常に罪悪感にさいなまれることになります。
何故かと言いますと、罪を犯すことも出来たし、聖い生活を送ることも出来たのに、あえて罪を犯したとすれば、それはすべて自分のせいだからです。

罪悪感に苛まれているので「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい」という聖書の命令に従うことは土台無理な話しなわけです。

        

5.解決はある

ありのパパがどうやって、このような状態から解放されたかと言いますと、三つの道から神の助けと導きをいただきました。

じつはこれが私のニックネームの由来になっているだけでなく、生涯の指針となっているのです。

一つ目は、ありのままの私でよいということを体験的に知ること。

二つ目は祈りの賜物としての異言を活用することによって、神様と人格的な交わりを常になすことによって。

三つ目は12ステップを通して自己洞察を行うことによってです。

この三つのことによって、クリスチャン生涯を平安に生きることが出来るようになりました。

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