祝福されるお金の使い方と、呪われるお金の使い方があると、聖書は明確に述べています。
そこでどのようなお金の使い方が呪われ、どのようにお金を使うと祝福されるのかを見ていきます。
1.神と富(とみ)
多くの財産を蓄え、それを人のために使おうとせず、ただ自らが安穏(あんのん)に暮らすためだけに財産を用いようとした金持ちに対して、神は「『愚か者。お前の命は今日取り去られる』」[新約聖書ルカの福音書12章21節]と言われました。
振り返って我が国を見てみると、バブル景気で国内の富は増加したにもかかわらず、この富を貧しい人々や国々のために使おうとすることはありませんでした(ごく少数の例外を除いて)。
その結果、神は私たちの国に与えられた富を取り去られました。
そして与えられる前よりも経済は悪くなりました。
富むことは祝福ですが、与えられた富の使い方によっては呪いにもなるのです。
○ここから学べる教訓は、
①財産を作ることを最終目的にしないこと。
②自分たち家族のための蓄えは、人間として生きていくための必要を満たすものを限度とすること。
③教会の宣教費用を満たすことで満足せず、常に貧しい人々や国々に援助を行うこと。
福音主義キリスト者が教会の拡張のための出費にのみ関心があり、貧しい人々のために献金しない傾向があるのを危惧します。
裁きのとき、悲しむべき判決が下されることがありませんように。
2.自己増殖のためにお金を使うと呪われる
自分の安楽のためだけにお金を貯めることが滅びをもたらすと、イエスは言われました。
では教会のためにお金を使うことはどうでしょうか?
大変言いにくいことですが、たとえ教会であっても、自己の増殖のためにだけお金を使っているとしたら、やはり神の呪いを受けます。
これが同じように教会堂を建築した教会であっても教勢が不振になるところと、変わりなく伸びていく教会がある理由の一つではないでしょうか。
3.慈善事業と宣教の関係
教会が行う慈善事業に対して当たり前のように「宣教のために用いられますように」と言われる方がおられます。
初代教会は食糧の配給事業を行いましたが、宣教のために行ったのでもなく、教会が大きくなるために行ったのでもありません。
ただ目の前に困窮している人がいるとき、何もしないではおれなかったから配給事業を行ったのです。
それは新約聖書の使徒行伝を読めば分かるように、宣教の働きを妨げかねない問題でした。
しかし教会は、だからと言って宣教を優先させるために慈善事業をやめることはありませんでした。
これが現代の福音派教会なら、どのような対応がなされたでしょうか?
ありのパパは教会が貧しい教会員のために援助をしているのを見たことは一度もありません。
もし初代教会の姿に帰ることがリバイバルの条件であるとしたら、この面についても学び、実践する必要が大いにあります。
◎他者のためにお金を使う生き方が、神の願っておられる生き方であるのです。
平安と祝福を祈っています。