イエスは偽善を廃すると攻撃されると言われました。
偽善とは何でしょうか?
偽善を廃するにはどうすればいいのでしょうか?
具体的に解説します。
1.偽善の性質とはどのようなものか?
福音書を読むと、イエスが偽善をどれほど嫌っておられたかが良く分かります。
イエスが言われた「パリサイ人のイースト菌」とは、今の言葉で言うなら遺伝子とかDNAということになるでしょう。
どんな点に特徴があるでしょうか?
①目に見えないが、人を完全に支配している
細胞の奥深くにしまわれており、人の目に見ることの出来ないものですが、しかし人の体を完全に内部から支配しているものです。
偽善とは、目には見えないが、しっかりとその人の行動パターンを形づくり支配しているということです。
②建前と本音が違う生き方
自分では本音と建前をうまく使い分けているつもりでも、そのような生き方はいつか必ず破綻します。
「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られないものはありません」
③イエスは偽善的な生き方を暴くように命じられた
「わたしが内輪の弟子にだけ伝授した奥義を、今こそ公然と言い広め、伝道しなさい」
ここで言われている奥義とは前後の文脈から言って、隠されている偽善、すなわち義人を演じる生き方を避け、そのような生き方が神のみこころにかなわないものであることを公然と言い広めることを意味しています。
ありのパパの率直な感想ですが、イエスは本当にラジカルな方であると思わせられます。
このような生き方は周囲に波風(なみかぜ)を立てることが必然です。
これは日本人にはしんどい生き方ではないでしょうか?
勿論、日本人を作ったのも神様ですから、神様に文句を言うわけにもいきません。
ただ信仰によって従うだけです。
2.弱い者であっても信仰告白する勇気が与えられる
偽善に注意するように言われた直後に「そこであなたがた弟子に言います」とあることから、このところに書かれてある「恐れるな」とは偽善を排するように努めていると、必ず迫害されるが、それを恐れてはならないと読むことが出来ます。
迫害されるとき、私たちは心の中で「こんなちっぽけな自分が、なぜこんなたいそうな問題に巻き込まれなければならないのだろうか」と思いがちであり、このような問題はもっと偉大な信仰者が担うべきであると考えてしまいます。
そのようなときイエスは「そうではない。雀一羽でも神に覚えられているのだ。ましてあなたがたが神に大切に思われていないはずがないではないか」と言われるのです。
「わたし(イエス)を中傷する罪は悔い改めれば赦していただけるが、聖霊に対して故意に反抗するなら、悔い改めることが出来なくなり、永久に赦しを受けることが出来なくなってしまいます」
この部分の解釈は多くの方が難儀するところですが、しかし文脈に従って読み進めるなら、真意は明らかではないでしょうか。
すなわち「わたし(イエス)を中傷する」とは未信者によるものですから、この人たちは聖霊の先行的恩寵以外の何物も神から与えられていません。
「聖霊に対して故意に反抗する」とは既に聖霊が心のうちにおられることを意味していますから信者を指しています。
人前で信仰告白しなければならないとき、うちにいます聖霊が「勇気をもって告白するのだ。あなたは神に大切に思われている」と促しを与えてくださいます。
そうであるにもかかわらず人の目を恐れたり損得勘定(そんとくかんじょう)の故に主を告白しないなら、それは聖霊に対して故意に反抗することになります。
そして告白しないことが当たり前になってしまうと「人々の前でわたしを否むなら、わたしも天のお父様の前で、その人を否みます」とのお言葉が成就することになります。
3.偽善の本質は何か?
それは入信のときの三つの信仰告白を投げ捨てることです。
①自分の力では罪に打ち勝つことが出来ず、救われることが出来ないことを認めた。
②しかし神様になら、こんな自分であっても、お救いになることが出来ると信じた。
③この神様に、自分の心と生涯を献げ、委ねることを決心した。
偽善とは、この三つを投げ捨てて、自力で自分を救おうとすることです。
これが偽善の最たるものです。
私たちは生涯にわたって、この三つの信仰告白を持ち続けなければなりません。
そのようなとき私たちは神の守りのうちにいることができます。
しかしここから迷い出るとき、私たちは滅びを刈り取るのです。
◎他人の中にある偽善を攻撃するのではなく、自分のうちにある偽善に目をとめ、自分の中から偽善を追い出す生き方こそ神のみこころにかなった生き方です。
平安と祝福を祈っています。