依存症にとっての怒りは殺し屋。殺し屋のピストルから玉を抜く方法!

依存症者にとって怒りや恨みの感情は必殺の殺し屋のようなものです。
しかし殺し屋のピストルから玉を抜く方法があります。
この記事はなぜ依存症者やACにとって怒りや恨みが危険なのかを明らかにし、不快感情をためない方法について解説しています。

1.依存症者やACにとって怒りや恨みの感情は第一級の殺し屋

怒りは自殺行為

依存症者やACにとって「怒りや恨みの感情は第一級の殺し屋」(51頁5行目)であると性依存症のテキストであるホワイトブックには書かれてあります。
その理由は私たちは怒りや恨みなどの不快感情から逃れるために嗜癖を使うからです。

依存症は脳の報酬系に依存症回路ができる病気であり、いったんできた依存症回路は死ぬまでなくなることはありません。
そのため依存症は治らない病気と言われています。
この依存症回路から第一級の殺し屋である強迫観念と渇望現象が襲ってきます。
だからこの殺し屋が襲ってきたら、私たちに勝ち目はありません。

しかし唯一つ、勝利の方程式が存在します。
それは殺し屋が襲ってくることは避けられませんが、殺し屋が持っているピストルから玉を抜くことが可能なのです。
そうしておけばたとえ殺し屋が襲ってきても私たちが殺される(スリップする)危険はなくなります。

これが依存症は治らない(殺し屋が襲ってくることは避けられない)が、回復することは可能(殺し屋のピストルから玉を抜く)であると言われる理由です。

次の項目では不快感情が溜まる原因について説明します。

2.不快感情が溜まる理由は人間関係の持ち方が原因

人間関係の持ち方

「態度の変化は間違ったやり方に固執しようとする決意を生み出す」(ホワイトブック50頁19行目)

態度の変化とは人間関係への態度の変化です。
幼少時代は文字通り無力な存在であり、私たちは他者に対して関係を持ちたいと願っています。
それは自分以外の誰かに世話をしてもらわなければ生き延びることができないので当然のことなのですが、この「人への態度」が変化するときが訪れます。

態度が変化するきっかけは家族の心ない言動やあるいは学校などでの教師・友人からの言動であったかもしれません。
完全な人は一人もおらず、欠けの多い人々の集まりがこの社会ですから、この社会で生きている限り、私たちが傷つくことは避けられません。

態度が変化することの本質は暖かな信頼関係からギスギスした人間関係への変化です。
これは言葉を替えていうと「敬意をもって接する関係」から「ただそこにいるだけ」の関係への変化ということができます。

このような生き方を続けているとそれをする人の心を変化させます。
それが間違ったやり方を固執しようとする決意です。
誰も自覚的に「固執してやる!」などと決意する人はおりません。
ただごく自然に決意が生み出されてしまうのです。

ありのパパは時々、人様から「ありのパパさんは頑固だね」と言われることがあり、自分ではそう思っていなかったので不思議に感じていました。
しかし今ではそう言われる理由が分かります。
その理由が「固執しようとする決意」です。

間違ったやり方を固執すると「相手に憤慨する道を選択する」(同50頁19行目)ようになります。
なぜならそうしなければ生きていけなくなるからです。
相手を憤慨することで自分の問題を見ないようにして人生をかろうじて生きてきましたが、その怒りや恨みの感情によって私たちの人生は思い取りに生きていけなくなるという矛盾に陥りました。

次の項目では怒りや恨みを溜めないためにはどうしたらよいかを説明します。

3.古い生き方から新しい生き方への転換が不快感情を溜めない唯一の方法

ピストルから玉を抜く

①古い生き方とは人格的関係を伴わない人間関係を生きること

人格的関係を伴わない人間関係とは相手に敬意を払わないことです。

たとえばコンビニの店員さんにあたかも機械に接するかのような態度を取る人がいますが、この人は人格的関係を伴わない人間関係をもって生きている人です。
「いやいや私が機械のように接するのはコンビニの店員だけであって、他の人にはそんなことをしていない」と仰るかもしれません。

しかしそれは真実ではありません。
なぜなら人間関係に例外はないのであり、すべての人に敬意をもって接するか、それともすべての人に機械のように接するのかのどちらかであるからです。

「いや、私はちゃんと使い分けている」という方にお願いしたいのは、家族や友人や職場の同僚に「私はあなたに敬意をもって接していると、あなたは感じていますか?」と尋ねていただきたいということです。
答えは明らかであろうと思います。

②新しい生き方とはすべての人に敬意をもって接することに全力を尽くす生き方

注意しないといけないのは「分かった〜。敬意をもって接することに全力を尽くせばいいのね!」とばかりに、そのことだけに注力することです。

しかしその接し方の根底に相手に対する敬意がなければ、それはお芝居でしかありません。

もちろん始めは根底に敬意がなくても仕方がありません。
しかしある程度敬意をもって接する生き方を続けていけば、自然に相手に対して人格的関係を感じるようになります。
これが偽物と本物を見分ける印です。

③敬意をもって接する生き方こそが殺し屋のピストルから玉を抜く唯一の方法

こちら側が敬意をもって接したとしても相手が敬意をもって接してくれるとは限りません。
現実の社会では傷つけられることも多くあります。

しかし忘れてはならないのは「敬意をもって接しているのは相手のためではなく自分のためである」ということです。

それは敬意をもって接することによって本能が傷つかなくなり、本能が傷つかなければ感情が暴走することもなくなり、不快感情は消えてなくなります。
これが殺し屋のピストルから玉を抜いておく唯一の方法だからです。

だから相手が敬意をもって接してくれなくとも私たちは恨みがましい思いをもつ必要はありません。
そのようなときは自分に言い聞かせます。「私はあの人のために敬意をもって接しているのではない。自分がスリップしないために敬意をもって接することに全力を尽くしているのだ」と。

自分の側に落ち度がないとき人に傷つけられても感情が暴走することはありません。
「あの人、可愛そうだな」と思えるだけです。
感情が暴走する時はこちら側に何らかの落ち度があるときです。

誰かに怒鳴られたとします。
その時、自分の側に落ち度がなければ「可愛そうな人だな」と思うだけです。
しかし恨みや怒りの感情があるなら、それはこちらの側に何らかの落ち度がある場合です。

「もし私が怒鳴り返していたとしたら、今でも私はその人を恨んでいただろうか?」という質問を自分にします。
そうすると怒鳴り返すという行動を取るかどうかは別として、相手が怒鳴るという行動に対して自分が何もしなかったことが、実は自分が恨んだり怒ったりしている真の原因であるということが明らかになります。

「人は私自身を傷つけることができない。自分自身を傷つけているのはいつだってこの自分である」という事実を忘れないようにしたいものです。

ありのパパにも強迫観念が毎日のように襲ってきます。
しかし殺し屋のピストルに玉が入っていないことを知っていますので、驚き慌てることはなく、ただ「私にはできない。しかし神には何でもできるからである」と三回以上祈ることだけをします。

内緒ですが「本当にピストルに玉が入ってねぇだろうな?」と怯えることがたまにはあります(笑)。
しかしそのようなときは自分の心を省(かえり)みて不快感情がないかどうかを確かめ、無いことが分かったら同じ祈りをします。
そうやって「今日一日だけ」のシラフを保っています。

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