ウソをつかないでおこうとする生き方は結局ウソを隠す生き方に変質します。
そうならないためには正直になる生き方を選び取ることです。
正直になる生き方とはどのようなものかを詳しくご説明します。
1.神に対して正直になる
真の悔い改めとは、自分では自分を救うことができないのを認めることです。
真の信仰とは、神様ならこんな自分をお救いになることができると信じることです。
具体的には自分にはコントロール不可能なものがあることを認めることです。
それは人によってちがいますが、依存症的に自分を支配するものなら、どんなものでも該当します。
正直になるとは、自分では罪に勝つことが出来ないこと、神様ならこんな自分であっても罪に打ち勝たせてくださるのを信じることを指しています。
これは繰り返し自分の中で確認すべきことです。
なぜこれを自分の中で繰り返し確認しなければならないかと言うと、そうしないと無意識のうちに自分の力に頼ったり、逆に神が助けてくださらないのではないかと思って不安になる危険があるからです。
「神に対して正直になる」を心の中で唱えることにより、自分の力に頼らず、神に頼るようになります。
信仰は瞬間瞬間のものです。
23時間信じていても、1時間信じていないなら、その1時間のところから誘惑が侵入してきます。
ですから24時間どこでも(every time every where)正直であることが必要です。
例外はありません。
例外を作ると、そのところから罪と誘惑が入ってくるようになります。
2.自分に対して正直になる
神と自分の関係を、自分と自分自身の関係に反映させることが必要です。
どういうことかと申しますと、自分自身とは今までの自分の生き方の積み重ねです。
ですから顕在意識の自分がいくら前向き・肯定的に生きようとしても、今までの失敗を嫌というほど知っている自分自身は大丈夫かと不安に感じています。
これが無意識の不安となって私たちを襲うのです。
このようなとき私たちは自分自身を抑圧したり、自分自身の声が聞こえないふりをするのではなく、自分自身に向かってやさしく言い含める必要があります。
すなわち「自分には出来ないが、神には何でも出来るからである」と。
すると自分自身はこう言います。「今までだって、そう言っていたじゃないか。何回そのセリフを聞いたことか!」
あなたは何とお答えになるでしょうか?
ありのパパならこう答えます。「今までは本当の意味を知らずにスローガン的に言っているのに過ぎなかった。しかし今は真の意味を教えていただいた。今度もまた失敗するとしても成功するまでやり続ける。なぜならそれが神の意志であるからだ」
3.隣人に対して正直になる
隣人に対して正直になる生き方とは、何を指しているのでしょうか。
決して自分の本音を相手に押しつけたり、自分の思うままに操ろうする邪悪な欲望を肯定する生き方ではありません。
今までは恐ろしくて言えなかった自分の本音を口に出すことです。
これは決して相手に対して配慮せず、何でもかんでもぶっ放すということではありません。
そうではなく、ヤコブのように兄のエサウに対して「実は今までは兄さんがこわかったのですが、今は兄さんの顔のうちに神様の顔を見ることができます」と言うことです。
ヤコブは自分を愛し、共に歩んでくださる神様を、恐怖の対象であった兄エサウのうちに見ることができると言いました。
これが隣人に対して正直になるということです。
日本人には難しいことですが、たとえば人に「あなたはきちんとしておられるから」と言われたとき、あなたが本当はずぼらであるとき、何とお答えになるでしょうか?
「いや~、そんなことないです(笑)」と答えるなら、それは偽善です。
「私はずぼらな者です」と答えるなら、嘘はついていないかもしれませんが、正直になる生き方とは言えません。
正直になる生き方とは「そのように言っていただくことが出来るような者ではありませんが、そう言ってくださるあなたが素晴らしい。そしてまがりなりにもあなたにそのように見えるようにしてくださったのは神様によります。これからもますます成長していくことが出来るようにお祈りください」と言うことです。
○「はじめの誘惑を退ける」「今日一日を生きる」「正直に生きる」
この生き方を身につけていくとき、誘惑に対して強固な城壁をもった城のようになることが出来ます。
希望をもって、共に前進しようではありませんか!
平安と祝福を祈っています。