親をゆるせない自分はダメか?依存症から回復しないのは神の意志か?

キリスト者をはじめとした宗教者が12ステップに出会って思い悩むことは整合性の問題です。
どのようにして折り合いを付けていけばよいのでしょうか?
この記事ではこの問題に悩むクリスチャンの方からのご相談にお答えしています。

1.ご相談内容

いつもブログを拝見しています。
毎回励みになっているとともに、アルコール依存症とアダルトチルドレンについての知識を得ることができ、今後の指針に役立たせていただいております。
本当にありがとうございます。

本日は最近ふと感じたことについてありのパパ様のお考えを伺いたく、相談いたします。

①十戒の「父と母を敬え」という教えについて  

敬えない私はどうしたらいいのでしょうか?
彼らの行いを許すようにしています。
フラッシュバックで思い出すたびに払拭するよう努めてはいますが、怒りが湧いてきてしまいます。

彼らの行いをたとえ許したとしても本人達は自分たちがしたことを何とも思っていないし、会うたびに私の怒りのスイッチを押し、逆撫でするような言動をします。

私はこの戒めを守れないので、神様に許してもらうよう祈り、無力な私に神の力を与えてくれるよう祈っています。
しかしいつも罪悪感を感じ、この聖書箇所を読むたび胸が痛くなります。

②イエス様はどんな病でも癒されるはずなのに何故アルコール依存症は不治の病なのか?

神様は私に対して個人的にわざと治さないようにしている気がします。
パウロの病気のように何かの目的があって、完全には治さないのではないかと思っています。

例えば断酒し続けられるのは主の恵みであるのに、自分を誇ってしまったり、断酒状態が続き充実した生活が送れるようになると充足感が強くなり、主の恩恵を忘れてしまうなど…。

お手隙の時で結構ですので、ありのパパ様のお考えを教えてくださると幸いです。
よろしくお願いいたします。

2.(相談へのお答え)親をゆるすことについて

赦し

こんにちは、でぃぼらさん。
ご相談をいただき、ありがとうございます。
親をゆるすことについてと、治らない病気と言われる依存症についてのご質問ですね。
一つ一つお答えしていきます。

虐待や養育放棄された経験をもつキリスト者をはじめとした宗教者が悩む問題が「親をどうやってゆるすか?」ということです。
この問題の取り扱いを誤ってしまうと一生の間、背負わなくてもよい重荷を背負い続ける羽目に陥ります。

①聖書のどこにも親を許せとは書いてない

十戒には「あなたの父と母を敬え」とあります。
敬うとは文字通り「敬意をもって接する」ということです。

敬意をもって接するという中にゆるすことが含まれていると考えるのはでぃぼらさんの類推です。

②ゆるすふりをしてはならない

でぃぼらさんは「ゆるすようにしてはいますが、怒りが湧いてきます」と書かれておられます。
しかし本当にゆるしていたら怒りは湧いてきません。
怒りが湧くのは本当にはゆるしていないからです。

それにもかかわらず、でぃぼらさんは「ゆるすようにしています」と言われます。
本当はゆるしてないのに「ゆるします」と言うことを「演技する」と言います。

この場合の正しい対処法は「あぁ、私はゆるせないんだ」というところにしっかりとお立ちになることです。

人は演技すると制御不能な怒りに翻弄されるようになります。
なぜなら怒りが二重になりますから。
親にされたことへの恨みに加えて、ゆるしたくないのにゆるしていることへの恨みが加わります。

前者の恨みは正当なものですが、後者の恨みは根拠がありません。
どうしてかと言えば誰もゆるしてくれなどと頼んでもいないのに勝手にゆるそうとしてゆるせないと怒っているからです。

毒親が「ゆるしてくれ!」と頼むなら、その親はもう既に毒親ではありません。
しかしながら大半の毒親は毒親のままで死んでいきます。

③自然にゆるせるようになるのを待つ

旧約聖書の雅歌には「うちから自然に愛が湧いてくるまで、私を放っておいてください」(08:04)とあります。
自然の反対語は不自然ですが、どのような不自然も神の前では罪です。

「人をゆるす」という営みは人間の側で何かをするというよりは、かさぶたが自然に取れるように「あの人のことなんかどうでもいい」と思うようになることです。

無理矢理にかさぶたをはがすとどうなるか、でぃぼらさんはご存知ですね。

3.依存症から回復させないという神の意志はない

回復するための行動

①依存症は不治の病ではない

でぃぼらさんは「何かの目的があって完全には治さないのではないか」と書いておられます。

「依存症は治らない病気。しかし回復は可能。だから回復に専心しよう!」と言われます。

でぃぼらさんがどのような意味で「治らない」という言葉を使っているか分かりませんが、それにしても治らない病気は多くあります。

まず糖尿病が典型的な治らない病気の筆頭です。
また精神の病であるウツや統合失調症もそうです。
ウツは再発しやすい病気であるため、完治という言葉を使わず寛解という言葉を使います。

今度は回復という言葉に焦点を当ててみましょう。
治らない病気が多くある中で、依存症は「必ず」回復する病気です。

きつい言い方で申し訳ないのですが、でぃぼらさんが依存症からの回復がはかばかしくないのなら、それはディボラさんの側に解決しなければならない問題があることを意味しています。

決して神の側に問題があるのではありません。
もちろんパウロのように祈り求めても治癒も回復もしないというケースがあります。
しかしパウロには肉体面での癒やしにまさって、セレニティー(心の平安・落ち着き)が与えられました。
これこそが本質的な癒やしです。

ですからでぃぼらさんがパウロの例を取り上げて「治らない病気」を云々するのは間違っています。

②依存症から回復するただ一つの方法

依存症から回復するただ一つの方法は霊的に目覚めることです。
霊的目覚めとは回復するのに十分な人格な変化を指しています。
人格の変化とは考え方・感じ方・行動の仕方が変わることです。
(これらのうちで自覚的に変えられるのは行動の仕方だけです)

依存症から回復する人とそうでない人の違いは霊的に目覚めることを目標にして回復の取り組みをしているかどうかにあります。

熱心にミーティングに参加したとしても、それだけでは霊的に目覚めることはできません。
もちろん熱心にミーティングに参加して他の仲間の分かち合いを聴いていれば自ずと「回復するためには霊的に目覚めることが必要なのだ」ということが分かってきます。
それでもなお分かっただけでは何ともなりません。
分かったことを行動に移す必要があります。

その行動とは棚卸し・新しい行動パターン・埋め合わせの行動のプログラムに取り組むことを意味しています。

霊的に目覚めたら必ず回復することができます。
この場合の回復とはスリップしないで一日を過ごすようになれるという以上のことを意味していません。

旧約聖書に朝ごとにマナという神の食物が与えられたように今日一日だけのシラフが与えられます。
マナが翌日には腐っていたようにシラフも今日一日だけのものです。

またマナを早朝起きて集めなければならなかったように、シラフを維持するために脇が甘くならないように祈り続け、日々の棚卸しをし続け、メッセージを伝え続けることが必要です。

◎回復と平安と祝福を祈っています。

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