底つき経験について話されていると「果たして自分は底をついたのだろうか?」と疑問に思ったり不安に感じたりした方はおられませんか?
この記事は底つきとは何かを明らかにし、続いて健康になる力を見出す方法について解説しています。
1.底つきとは回復するためには何でもすると決意した日
EA(感情と情緒に問題を感じる人々の自助グループ)の12ステップ本であるHow It Worksには「感情の底とは人生を変えるために今日何かをしたいと決意した地点」(9頁19行目)と書かれてあります。
多くの人が底つきという言葉の意味を誤解しているように思います。
自助グループのミーティングで底つきについての話ができると「オレはどんなに酷かったか」「私はどんなに大変だったか」などなど「酷かった自分」を分かち合っているようにも感じます。
だいぶ以前には福祉関係者も底つきについて間違った考えをもっていました。
それは「底をつかないと、どんなに援助の手を差し伸べても届かない」ということで、底つきするまで援助職の人々は何もしないという傾向がありました。
その結果、何が起きたかというと底つきを経験する前に死んでしまうという何とも皮肉な結末を迎えるということもあったようです。
そのため現在では援助職や医療関係者の間では「底つきは必要ない」ないしは「底つきはない」という理解になっているそうです。
この理解でも「底つきするまで援助できることはない」と考えるのに比べればだいぶマシですが、問題当事者にとって「底つきはあるか、ないか?」ということはまた別の問題です。
問題当事者の一人としてありのパパは「底つき(経験)は確かにある」と理解しています。
なぜなら自分の人生を振り返ってみて「たしかにあの時が底つきだった」という分岐点とでもいうべきものがあるからです。
それは「こんな人生はゴメンだ。回復するためには何でもしたい」と決心した日です。
そしてこれは後から振り返ってみて「あの時が底つきだった」と分かることです。
2.感情に行動を支配させてしまうのが依存症
「感情をあるがままに受け入れながらも、感情に行動を支配させることは許さない」(同10頁11行目)
誰もが自分は理性的に行動していると思い込んでいます。
しかし回復した後に、自分の行動を振り返ってみると「どこが理性的じゃ!」と呆(あき)れるほどに感情に行動を支配させていたのに気づきます。
何年か前、ありのパパが挨拶したにもかかわらず、無視した人がいました。
そのとき心の中で「こいつを絶対ゆるさない。たとえ向こうから挨拶してきたとしても絶対無視する」と決めました。
その時にはこれが病的であるとか、感情に行動を支配させているとか、ちっとも思いませんでした。
病的であるとはこういうことかもしれません。
私たちが感情面での無力を認めるのは大変難しいことです。
なぜなら他人のことはよく分かるが、自分のことは分からないものですし、なにより無意識に否認しているので気づくことができません。
「あっ、これは否認だね!」と思うのはまわりの人であって、当の本人はそんなことはこれっぽっちも思っていないのです。
しかし感情・情緒面で回復しようとするなら、どうしても自分が感情に行動を支配させていることに気づき、認める必要があります。
その方法はミーティングに参加して、仲間の話を聴き、自分の話をするということを愚直に行うことしかありません。
もちろんその時に「なんて的はずれな話をするのか」とか「感動的な話をしなければ」などと思って参加しているなら、いつまで経っても否認は解除されません。
3.「健康になる力」を見出す方法
「ステップ2以降の霊的な案内(スピリチュアルガイダンス)に沿って生き始める時、私たちは『健康になる力』を見出し、それは徐々に大きくなっていく」(同11頁2行目)
「ステップ2以降の霊的案内」とはステップの3から12までを指しています。
スピリチュアルガイダンスに沿って生き始めるときに私たちは回復することができます。
それは依存症が霊的な病気だからです。
ここで言う「霊的」は日本的文化のもとにおける霊的ではありません。
言葉を替えて言うと「霊性」と言ったほうがよいかもしれません。
霊性とは目に見えぬものをあたかも見えるように振る舞うことです。
目に見えないものは二つあります。
①自分の性格上の欠点からくる行動パターン
目に見えぬものとは「自分の行動パターン」です。
性格上の欠点からくる行動パターンは目に見えませんから、無自覚に使ってしまいます。
その結果、人々から反撃され自分自身(本能)が傷つきます。
本能が傷つくと感情が暴走します。
感情が暴走しないと私たちは本能が傷ついたことを知ることができませんから、感情が暴走すること自体は悪いことでも何でもありません。
問題は本能が傷ついた時、感情が暴走した時にどのように対処すればよいかを知らないことです。
その溜まりに溜まった不快感情から逃れるために私たちは嗜癖を使わざるを得ません。
ありのパパもかつては「自分でしたいと思わないことをなぜするのだろうか?」と不思議に思っていました。
依存症の構造を理解してからは「不思議でも何でもない。そんなことは当たり前だ」と考えるようになりました。
②神の意志とそれを実践する力
多くの人が「ありのパパが言ったように古い行動パターンを使わないで新しい行動パターンを使おうと努力しましたが、私には出来ません」と仰います。
最初の頃、そのように言われるとありのパパ自身が途方に暮れました。
「自分が人様に伝えている12ステップの内容に間違いがあるのだろうか?」というわけです。
しかしある時に気が付きました。
それは「出来ないも何も、そんなことは出来ないのに初めから決まっている」ということでした。
だからこそ私たちはステップ11で「祈りと黙想を通して自分なりに理解した神との意識的な触れ合いを深め、神の意志を知ることと、それを実践する力だけを求め」るのです。
ここでもステップ1の「私には出来ない」と認め、そしてステップ2で「しかし神には何でもできるからである」と信じ、ステップ3の「神の配慮に委ねる決心を」するのです。
委ねる決心とは自分は座り込んで「あとは神にお任せね」と無責任を気取るのではなく、自分にはできないが、自分という管(くだ)を通して神の力が流れ出て不可能を可能にしてくださると信じて目の前の課題に取り組むことです。
アルコホーリクス・アノニマスの共同創設者であるビル・Wは「他の手段では何年もかかることが、このプログラムではわずか2・3ヶ月のうちに実現している」と言いました。
回復には初時的な面と継続的な面があります。
継続的な面は何年も掛けて、あるいは生涯を通して成長していくべきものですが、初時的な回復を実現するのに何年も掛ける必要はありません。
ビル・Wによれば2・3ヶ月のうちに実現することです。

◎回復と平安と祝福を祈っています。