自分の問題を明確に自覚するのと比例して無力を認めることができる!

自助グループに参加するときに抵抗を感じるのは「うさんくさいところに行くのは嫌だ」ということではないでしょうか?
それは無力を認めていないからです。
この記事では無力を認めるのが難しい理由を明らかにし、無力を認める方法を解説しています。

        

1.無力を認めることができないのは自分の問題を否認しているから

演じる

依存症者やアダルトチルドレンに限ったことではありませんが、多くの人々が「何かが変われば人生は素晴らしくなると幻想を抱」(EAの12ステップ本であるHow It Works8頁2行目)いています。
(EAとは感情と情緒に問題を感じる人々の自助グループのこと)

たとえば「望む学校や会社に入ることができれば」とか「お金が沢山あれば」とか「幸せな結婚ができれば」とかです。
しかしこれは自分の問題を見ないためにやっていることに過ぎません。

本当に幸せになるためには幸せになれない原因を取り除く必要があります。
そのためには「自分には問題がある」と認めることが前提になります。
しかしこれは言うは易し、行うは難しです。
それで多くの人は「自分には問題はありません。あったとしても気にするほどではありません」という態度を取ります。

前出の本に書かれてあるように「何かが変われば人生は素晴らしくなると幻想を抱」くのは自分の問題を見ないようにするためです。
なぜ問題を見ないようにするかと言えば、いったん認めてしまえば、その問題は自分には解決不可能だとうすうす勘づいているからです。

ありのパパも人生を変えることが可能であるのを証明するかのように「変化した自分」を演じて「ほらっ、変わった!変わることができた」と自分自身に言い聞かせていました。
しかし演じている以外の時間は旧態依然の自分を生きていました。

公平に見ればちっとも変わってなんかおらず、変えられたふりをしているだけだったのは明らかでしたが、厚さ10mのコンクリートで蓋をしていましたので、その明々白々な事実に気づくことはありませんでした。

この記事をお読みの方の中で「自分も『変えられた自分』を人々の前で演じているが疲れ切っている」という方はおられませんか?

        

2.他者を裁くのは自分の問題を見ないため

裁く
私たちはなぜ人を裁くのでしょうか?
多くの人が「人を裁かずに生きることができればどんなに楽だろうか」と思いますが、なかなかそのように生きることができないでいます。

EAの12ステップ本には「自分を善人と感じるのに都合がいいので他人を裁いたり、批判的な態度を取ったりする」(8頁14行目)と書かれています。
なぜ自分を善人と感じる必要があるかといえば、善人だと思わないとやっていけないほど人生が行き詰まっているからにほかなりません。

ありのパパも「自分はなぜこんなにも他罰的なのか?」と感じてきました。
カウンセリングのある流派では「自分をゆるしていないから、他者をゆることができないのだ」と教えます。
これはある程度正しいのですが、しかし実際は自分をゆるしたとしても他者をゆるすことができるとは限りません。

問題の核心は「なぜ他者を裁く必要があるのか?」ということです。
私たちは好んで批判的であるのではなく、心理的必要があるからこそ批判的態度を取るのです。
その必要とは自分を善人だと思わないとやっていけないほど人生が思い通りにならなくなっているからです。

批判的な自分が嫌で何とかしたいと思うなら、問題の核心を解決することです。
原因がなくなれば、現れもなくなります。

        

3.見るべき目で見れば、自分の人生が思い通りにならなくなっていることは明白!

続けて無力を認める

人生を演じるのも、人を裁きやすいのも、すべては「痛みに直面して傷を癒やすことから自分を遠ざける」(同9頁9行目)ためでした。
もちろんこれは無意識の領域で起こっていることですから、私たちは気づかずにそうしています。

ステップ1で認めるべき無力は二つあります。
一つは嗜癖に対して無力ということです。
もう一つは思い通りに生きていけなくなっていることに対して無力ということです。

単に嗜癖に無力を認めるだけでは不十分です。
これだけですと「いや~昨日飲み過ぎちゃってさ~」と言う大酒飲みと余り変わりません。
そうではなく「自分はどのように努力しようとも、この無力から抜け出ることができない」と認めるとき、私たちははじめて「自分を超えた大きな力」を信じるようになります。
それまでは自分を超えた大きな力を「信じるようになった」ではなく「我力(がりき)で信じる」ところにとどまったままです。

このような記事を読むと「そうか。徹底して無力を認める必要があるのだな」ということでステップ1を時間を掛けて取り組もうと考えられるかもしれません。
しかしそのようなやり方よりも、さっさと次のステップに取り組んで最後までやり抜いたあとで、何度でもおさらいするように無力への理解を深めていったほうがよいと、ありのパパは考えています。

皆さんは「食事を一回したからもう食べる必要はない」と言われるでしょうか?
そんな人は一人もいませんし、もしいたとしても自然にお腹がすくので誰でも「食事は一回だけではダメで、継続的にとる必要がある」と理解することができます。

これと同じように無力への理解も「自分は無力を一回認めたから大丈夫」と思っていても、時間が来たらお腹がすくように「自分は無力を認めたと思っていたが、もっと深い意味があるようだ」と気づくときがやってきます。
ちなみにありのパパも霊的に目覚めた時点では無力の意味をちっとも分かっていませんでした。
それでも霊的に目覚めることができましたので、あまりにもステップ1に時間を掛けすぎるのは止めた方がいいと思います。
無力への理解は一生の間続いていく深まりゆく経験です。
ちょうど死ぬまでご飯を食べ続けるように。

◎回復と平安と祝福を祈っています。

https://wp.me/PEPCG-3Y9

        

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