「自分は依存症やアダルトチルドレン&共依存症から回復できれはそれでいい」と考えている人はおられませんか?
この記事ではそれはあまりにももったいない考えであることを明らかにし、人生のすべての領域に適用する秘訣を解説しています。
1.依存症からの回復の過程で身に付けたこの原理を人生のすべての領域に適用しよう!
依存症からの回復の過程で身につけたことは、無力を認めることと、自分を超えた大きな力が私たちを健康な心に戻してくれると信じることでした。
この「私にはできない。しかし神には何でもできるからである」という祈りと告白は言葉を換えて言うと打ち出(うちで)の小槌(こづち)、万能キーとでも言うべきものです。
心が健康な人でも様々な弱点や欠点をもっているものです。
ましてや依存症者が一つだけの嗜癖にとどまっているというのは余り考えられないことです。
依存症治療の現場ではアルコールや薬物などのハードな依存症から回復すると、すみやかにギャンブル・買い物・性・過食・怒りの爆発などのソフトな依存症へと移行していくと言われています。
もちろん重篤な依存症からの回復を最優先すべきであり、「あれも、これも。あっ、この依存症からも回復しよう」という態度は慎まなければなりません。
ただ、最も重篤な依存症から回復した後は、回復の過程で身につけた「この原理」を「私たちのすべてのことに実行しようと努力」する必要があります。
さて、この原理をどの領域に適用すれば良いでしょうか?
2.悪習慣に適用する
①夜ふかしに適用する
この記事を読んでおられる方の中で夜ふかしが常態化している人はおられないでしょうか?
常態化とは一週間のうち二日以上夜ふかしする状態を指しています。
ありのパパも夜ふかし常習者です。
これまで何度もこれを克服しようとして世俗主義のライフハック手法を使って取り組みました。
行為習慣は一ヶ月、肉体習慣は三ヶ月、思考習慣は六ヶ月、習慣として定着するのに掛かります。
夜ふかし習慣は三ヶ月で定着するはずなのですが、うまくいきませんでした。
三ヶ月間はうまくいくのですが、三ヶ月を過ぎると途端に元に戻ります。
それで悟ったことは「私の頭の中に夜ふかしを嗜癖として使う依存症回路ができているのではないか?もしそうだとしたら私は夜ふかしに対して無力である」ということでした。
アルコール依存症者でない人には可能な節酒が、アルコール依存症者には決して望めないように、同じように夜ふかし依存症者には早寝をしたり夜ふかしをしたりが決してできないのです。
それでアルコール依存症者が酒を一滴も飲まないように、夜ふかしすることを一切止めてしまいました。
そして朝から晩まで「私にはできない。しかし神には何でもできるからである」と祈り、告白します。
そうすると神の力が私のうちに流れ込んできて、私の力ではない神の力によってごく自然に床につくことができるようになりました。
その結果起きたことは、今までは空(から)元気で無理をして色々なことをやっていたのですが、無理をせずに日常生活を送ることができるようになりました。
時々思うことは「心の健康な人はこのような生き方を当たり前のように送っていたのか?私がいくら頑張っても成果を上げることができなかったはずだ!」ということです。
②人間関係に適用する
ある方のブログに「アメリカのAAが社会に受け入れられたのはアルコール依存症から著しく回復した者が続いたこと、その変化が家族に認められた」のが理由であると書かれてありました。
そこで気になるのは自助グループに参加して何年も経つのに依然として「家族が無理解で困る」とか「誰も私のことを分かってくれない」とかの泣き言が続いてることです。
ありのパパなどは心の中で「お前が分かってやれよ!」と毒吐きしております(笑)。
アッシジの聖者フランチェスコは「愛されるよりも愛することを、理解されることよりも理解することを私は求める」と言いました。
「~される」ことを求めている限り、それは決して実現せず、不毛な営みに終わります。
しかし「私は~する!」と決然と行動に移すとき、人生が変わります。
そして社会にも家族にも、その変化が真実であると受け入れられるでしょう。
ここで注意すべきことがあります。
それは共依存症者は「私が変われば、あなたも変わるのね。だったら私も変わるわ」と言う隠れた思考態度を持つことがあります。
このように考えている限り、家族もパートナーも職場も決して変わることはありません。
他者が変わるのは「手放して、あとは神にお任せ」したときだけです。
ほらほら誰ですか?「手放して、あとは神にお任せしたら、相手は変わるのね!」なんて言っている人は(笑)。
3.基本的な人間関係のあり方
うまくいく人間関係の原則は三つあります。
①相手に対して共感的理解を持つ
共感的理解とは要するに他人だと思わずに仲間だと思うということです。
ありのパパは自助グループに参加した最初の頃、参加者が「仲間が~」と言うたびに違和感を感じるほどに参加者を仲間だと思えませんでした。
それが回復が進むにつれて本気で仲間だと思えるようになりました。
この「共同体感覚」を他の領域にも拡げていきます。
でも出来ませんよね。だから「私にはできない。しかし神には何でもできるからである。よし、今日も取り組むぞ!」と祈り、告白して、行動に移します。
②相手の考え方に対して肯定的に配慮する
だれにも思考枠組みというものがあります。
要するに「これは受け入れられるが、あれは受け入れられない」というものです。
これを「正してやろう!」とか「直してやろう」とか思わずに、「そう思って当たり前だよね」と受け入れて配慮します。
これを書きつつ、ちょっとヘドが出てきそうになりました(笑)。
これも生まれつきの人間のままでは到底できことです。
だからこれも「私にはできない。しかし神には何でもできるからである。よし、今日一日だけ全力で取り組むぞ!」と祈り、告白し、行動に移します。
③自己一致
自己一致とは本音と建て前が分離せずに一つであるということです。
あるとき、ありのパパに「あなたは他の人とちがうように見えるのですが、その理由は何ですか?」と聞いてくださった方がいました。
まさか「はい、依存症からの回復の課程で人生のコツを身につけまして」と言うわけにもいかず、にやにや笑ってごまかしました。
そうすると即座に自分の心の中の将来野心の感情面での安全が傷つき、恐れの感情が暴走しました。
日々の棚卸しをやって分かったことは自分自身という存在が「そんな建前だけの人間関係を続けていると人間関係が破綻する日がいつか必ずやってくる」と考えたのでした。
ありのパパにはウソをつく自由はないのだと悟ったことでした。
依存症者やAC&共依存症者は「普通の人のようになれればそれでいい。回復したら悪目立ちすることをせず、カメレオンのように周囲と同化して暮らしたい」と考えている人がいるかしれません。
しかしその考えは贅沢に過ぎる考えであり、ACや依存症には決して実現出来ない夢物語です。
私たちはすっくと立って「はい、神の恵みによって今の私となることができました。取り組みさえするなら必ず実現します!」と謙遜に大胆に宣言したいものです。
それだけがソブラエティ(嗜癖に頼らない生き方)を保ち続ける道です。
◎回復と平安と祝福を祈っています。
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