アダルトチルドレンは自分の問題を見ないために過剰な世話焼きを使う

「過剰な世話焼きをする自分はどこかおかしい」と感じている方はおられませんか?
この記事ではACが過剰な世話焼きをする理由を明らかにし、そこから解放される方法を解説しています。

1.アダルトチルドレンは自分の問題を見ないために過剰な世話焼きを使う

過剰な世話焼き

多くのACが内心で「自分はなぜこんなにも自分のことをほっぽり出して他人の世話ばかりしているのだろうか?」と訝(いぶか)しんでいます。
自分でも少しは他人の世話ばかりしないで自分自身の世話をしたらどうかと思っているのですが、思っているだけで実行に移すことはありません。

その理由は自分の問題を見ないためです。
自分の問題とは性格上の欠点からくる行動パターンを指しています。
性格上の欠点には四つあり、それは利己的・不正直・恐れ・配慮の欠如です。

ありのパパも薄々勘付いていましたが、問題解決の方法を知りませんでしたので、気づかないふりをしていました。
そうこうしているうちに人生が思い通りに生きていけなくなりました。

今から思えば「なぜ勇気を持って自分の問題に直面しなかったのか」とも思います。
しかし現実は自分の人生がどうにもならなくなるまで問題に直面することをしませんでした。

短所という根源的な問題に直面する勇気をもつまでは本能は傷つき放題であり、感情は暴走し放題ですから、どうしたって嗜癖を使わざるを得ません。

2.嗜癖として使っているのを認めることが回復のきっかけとなる

渇望の波

①なぜACは過剰な世話焼きを否認するのか?

物質依存や行為依存とACの根本的違いは否認がしやすいということです。
ギャンブル依存症なら、そのために借金をこしらえ、自己破産寸前まで追い詰められるという現実を前にして否認することは周囲の手前もあり、難しいことです。(それでも否認する人はいます)

それに対してACの「過剰な世話焼き」は一見良いものに見えますし、相手にも感謝されることが多いです。
しかしACの過剰な世話焼きを喜んで受け入れる人は病的な人であり、二人で団子虫のように人生の坂をゴロゴロと転がり落ちているのです。

②過剰な世話焼きを使うのはAC自身の責任

ACの分かち合いを聞いていて危(あや)ういと感じるのは「なぜ自分が過剰な世話焼きを発揮するようになったのか」を話す時に、原因として養育者との関係を取り上げることです。
たしかにそれは間違っていません。
私たちACは養育者との関係から過剰な世話焼きを身に付けた場合が多いです。

しかし今現在私たちが過剰な世話焼きを発揮するのは私たちの責任であり、養育者の責任ではありません。

③嗜癖として使っていることを認める

過剰な世話焼きを嗜癖として使っていることを認めるまでは世話焼きは止まりません。
なぜなら私たちは嗜癖に対して無力だからです。
なぜ無力かと言えば脳の報酬系に依存症回路ができているからです。

ですからステップ1でしっかりと無力を認めれば、解決は自然に見えてきます。
解決は「この私」が無力なのですから、「この私」を超えた大きな力ということになります。

「過剰な世話焼きを発揮したい」という渇望の波がやってきたら、その波に飲み込まれる前に頭(こうべ)を垂(た)れて「私には出来ない(ステップ1)。しかし神には何でも出来るからである(ステップ2)」と三回祈ります。

そうすると渇望の波は向こうのほうへ過ぎ去っています。
過ぎ去っていなければもう一度繰り返します。

ありのパパの個人的経験ですが、失敗するときはこの「動作」を忘れているときです。
渇望の波をかぶってずぶ濡れになってしまえば、私たちは無力を露呈するほかはありません。

3.健全な世話焼きと病的な世話焼きの違い

健全な世話焼き

買い物依存症や摂食障害(過食)のように「思い切って全部止めてしまう」という方法が使えない依存症があります。

アルコール依存症なら「全く飲まない」という一手です。
しかし買い物を全然しないわけにはいかないし、食物を全然食べないわけにもいきません。

同じように私たちが何らかの責任を負っている限り、世話焼きを全くしないというわけにもいきません。
この部分をどのように乗り越えるかで、嗜癖として使い続けるのか、それともしらふを保つことが出来るのかの分かれ目になります。

肝心なことは病的な世話焼きと健全な世話焼きの違いを知っておくことです。

病的な世話焼きは自分の中にある「人が怖い」という人への恐れから逃れるために他者をコントロールしようとする動機から出ています。
それで病的な世話焼きは自分の願ったように人を動かすために行っていると言えます。
そのため病的な世話焼きを続けると人間関係のトラブルに発展することが多いです。
なぜならこの地上に生きる人で誰もコントロールされたいと思う人はいないからです。

健全な世話焼きは「自分の思い通りに動かしたい」という利己心を捨て、他者への敬意を土台として配慮を充実させるものとして行われます。

このように表面的には同じように見えても動機が全く異なります。
そして健全な世話焼きは新しい行動パターンそのものと言ってよいものです。
このような生き方を続けていくと本能は傷つかなくなり感情の暴走も止まります。
その結果、不快感情はたまらなくなりますから、嗜癖を使う必要もなくなります。

◎回復と平安と祝福を祈っています。

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