性的渇望をやめる気がないなら、性的しらふは単なる願望に過ぎない!

強迫観念と渇望現象

誰だって「性的にしらふでありたい」と願っています。
しかしそれは「犠牲なしにしらふを得られるなら」という条件付きです。
この記事では性的な渇望を止める気がないなら、性的なしらふを望んでいないのと同じであることを明らかにします。

        

1.性的な渇望をやめる決心と覚悟がないなら、性的にしらふになりたいという願いは白昼夢に過ぎない

白日夢

SA(性の領域に問題を感じる人々の自助グループ)のホワイトブックには「SAのメンバーになるために必要なことは唯一つ、性的な渇望をやめ、性的にしらふになりたいという願いだけである」(4頁20行目)と書かれてあります。

これを初めて読んだ時、ありのパパは不謹慎にも「ひとつだけと言っておきながら二つ書いてあるではないか!」と思ったものでした。
しかしそれは理解不足でした。
どういうことかというと、性的な渇望を止める気がないなら、性的にしらふになりたいという願いは白昼夢でしかないということです。

「しらふの人生を送りたいですか?」と聞かれて「はい、送りたいです」と多くの人がお答えになるでしょう。
しかし「そのために犠牲を払う覚悟はありますか?」という質問が続くことを知ったら、それでも「はい、しらふの人生を送りたいです」と答えることができるでしょうか?

ありのパパはクリスチャンであり、多くのキリスト者から「性的に聖(きよ)い毎日を送ることができません」という相談を受けてきました。(聖いとはしらふという意味です)
すべての方がそうだというのではありませんが、多くの方にとって聖い生活は自分の満足のためです。
それは神の命令に応えたいという信仰心から来ていますが、実はその動機は「完全になりたい」という願いです。

キリスト教信仰は「①どう転んでも自分の力では自分を救うことができない。②しかし神にならこんな私をお救いになることができる」というものです。
①で我力(がりき)で救われることを諦めたはずなのに、どういうわけか気がつくと完全を求めているのは実は我力で救われることを諦めてないからです。

キリスト者と12ステップに取り組む人々の違いが二つあります。

聖い人生を送りたいと願うキリスト者の動機が「完全になりたい」というものだとしたら、ごく短期間であったとしても聖い生活を送ることができるようになると傲慢になります。
なぜなら我力で救われるようとすること自体が既に高慢ですから。

これに対して、後者の人々が12ステップに取り組むのは「嗜癖を使い続けていると人生を棒に振ってしまう」からです。
それで嗜癖から回復すると心は全き平安に満たされるようになります。
なぜなら不快感情がない心にはもともと平安があったからです。

もう一つの違いは12ステップに取り組む人々は「治る」ことを諦めた人々であり、「回復」することを目指しています。

キリスト者が聖い生活を続けることができない最大の理由は誘惑(渇望)が襲ってくると、「自分は潔(きよ)められたはずなのに、なぜ誘惑が襲ってくるのだろうか?誘惑が襲ってくるこんな自分はダメな自分だ!」と受け取ってしまうからです。

もしここで「自分は一生罪人のままだから誘惑が襲ってくるのは当たり前。それがどうした!」と向き合うことができれば誘惑に正しく対処できます。
誘惑が襲ってくるたびに「私にはできない。しかし神には何でもできるからである」と祈るなら、生涯にわたって聖い生活を続けることができます。

        

2.誰一人として渇望を愛していない人はいない

聖書に「義人(ぎじん)はいない。一人もいない」とあります。
これの意味は「しらふになるために渇望を捨てる気のある人はいない」ということです。
正直な心になって自分の心を覗(のぞ)き込むと自分の中には渇望を捨てる気がさらさらないのを認めざるを得ません。
何とか悪あがきをして、詭弁を使って、渇望を捨てないままで性的にしらふでいることはできないだろうかと虎視眈々(こしたんたん)と狙っているのです。

しかし渇望を捨てない限り、人生を棒に振るのは明らかです。
そこで自分なりに理解した神に祈ります。

「神様。私には渇望を捨てる気がありません。どうぞ、私の心に渇望を捨てる決心と覚悟をお与えください」

このように祈ることがステップ11の「祈りと黙想を通して………、神の意志を知ることと、それを実践する力だけを求め」ることです。

        

3.本当の性的なしらふの状態になるには渇望を徐々に乗り越えていく過程が含まれている

アルコールや薬物などの物質依存の特徴はやるかやらないかの二者択一ということです。
これに対してギャンブルや性などの行為依存の特徴は渇望を徐々に乗り越えていく過程が含まれています。

神は一つずつ光を当ててくださいます。

「お前はこれだけを止めることができれば、あとは手放したくないと考えているが、本当にそれでしらふと言えるのか?」

ギャンブル依存症の場合を例に上げると「自分はパチンコ依存症だ。だからパチンコはやめよう。でもスマホのゲームは大丈夫だ」と初めのうちは考えています。
しかし気がつくとスマホゲームに課金をしているのです。
それで「これじゃパチンコをやっているのと変わらないじゃないか!」と愕然とします。
それでゲームもやめてしまいます。

性依存症の場合、例えば嗜癖として強迫的なマスターベーションを使っていたとします。
それで自慰行為を止めるのですが、ある時にネットポルノを見ていることに光が当てられます。
「これでは心理的に自慰をしているのと変わりがないではないか!」というわけです。
しばらくすると今度は日々の生活の中で浮かんでくる考えが性的妄想の度合いが病的に強いことに光が当てられます。

これが「渇望を徐々に乗り越えていく過程が含まれている」ということの真意です。
これを違う面から見ると「これだけを止めることができればいい」と思っているうちは本当のしらふには達していないということでもあります。

依存症の回復過程は一生続きます。
どこまで回復できるか楽しみでなりませんね。

◎回復と平安を祈っています。

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