12ステップで無力を認めるとは嗜癖に対して無力を認めることを指しています。
これに対してアダルトチルドレンが無力を認める領域は三つあります。
この記事ではなぜ三つの領域で無力を認める必要があるのかを解説しています。
1.機能不全家族の影響
「ACのための12ステップ」という本には「自分の幼い頃の嗜癖的な、あるいは機能不全の行動の影響に対して無力を認める」と書かれてあります。(23頁下から5行目)
これは一見するとおかしな主張であるようにも思えます。
なぜなら世間一般の教えは「親の影響なんか消し飛ばせ!あなたにはそれが可能だ!」というものだからです。
しかしアダルトチルドレンの回復に取り組んできた人々はみな口をそろえて言います。
「機能不全家庭で育った影響に対して無力を認めよ」と。
なぜでしょうか?それは無力を認めない限り、前進できないし、回復の道を歩むことが出来ないのを体験的に知ったからにほかなりません。
もう一つの理由は「私は影響なんか受けてないし、たとえ受けていたとしても克服できる」と思っている状態は、親への恨みを抑圧している状態でもあるからです。
これが回復したと思っていたにもかかわらず、人間関係のちょっとしたトラブルに遭うだけでこれまで積み上げてきた回復がボロボロと崩れ去ってしまう理由でもあります。
抑圧している恨みが何かをきっかけとして噴出するのです。
影響を認め、それに対して無力を認めることは、同時に親への恨みに対面することでもあります。
そして無力という基礎の上に神への信仰という土台を乗せ、その基礎と土台の上に回復という名前の家を建てます。
そうしたら人間関係のトラブルに出会っても回復の家は持ちこたえることが出来ます。
なぜなら無力が基礎になっている家とは人間的トラブルに対して耐震性の設計だからです。
2.進行性の行動障害
アルコールや薬物の依存は物質依存であり、ギャンブルや性・買い物は行為依存です。
これに対してアダルトチルドレンの依存はある特定の振る舞いに対する依存であり、これを行動障害と呼びます。
ACの行動障害は「ACの問題リスト」と呼ばれる一覧表に載っているものだけで13個あります。
たとえば人が怖いので人々から孤立することを嗜癖として使うこと、自分が何者か分からず他からの承認を病的に求めること、自分が依存症になったり、依存症者と結婚したり、あるいは強迫的な問題を抱えている人を見つけ、その人たちから見捨てられる痛みを感じようとすること、人に対して病的に依存的であること、感情を否認すること、行き過ぎた責任感と過剰な世話焼きを発揮することなどです。
進行性とはたとえ回復したとしてもいったんスリップすると前回スリップしたようではなく、いっそう症状が重くなっていることを指しています。
たとえばありのパパは怒りの爆発という行為依存ですが、「長い間爆発させてないから、ちょっとここらで爆発させてやれ!」という強迫観念が教えるウソがやってくることがあります。
そうしたときに感じるのは怒り依存症の症状が自分の中で進んでいるということです。
怒りの爆発しやすさや、爆発の大きさなどが前回よりも大きいということを感じるのです。
それで「私は強迫観念が教えるウソを見破る!」と宣言して、シラフを守ります。
進行性の行動障害に対して無力を認めるのは他の依存症と同じです。
3.病的なコントロール欲求
病的なコントロール欲求とは共依存症ということです。
なぜ共依存に対して無力を認める必要があるかというと、他者を変えてやろうとしている限り、自分を変えることは出来ない相談であるからです。
自分一人が回復するだけでも大変なエネルギーがいります。
それにもかかわらず自分のことを棚に上げて、他者を変えてやろうとすることはエネルギーが分散するわけですから、回復できるわけがありません。
ですからどうしても共依存に対して無力を認め、他者に対する病的なコントロール欲求を手放すことが必要です。
4.どこまで行っても無力を認めることは出来ない
あるカウンセリングの流派では「ありのままの自分を受け入れる」ことが問題解決の鍵であると教えます。
この記事を書いているありのパパのペンネームもこのありのままから来ています。
あるときにこのカウンセリングを受けている婦人がやってきて「どうしても自分のありのままを受け入れることが出来ません」と言いました。
それでありのパパは「その受け入れることが出来ないご自分自身を受け入れるのです」と申し上げました。
そうするとその婦人は「そう思って自己受容するのですが、やっぱり自分自身を受け入れることが出来なくなるのです」と言われました。
そこでありのパパも負けずに「その受け入れることが出来ない自分自身をありのままに受け入れるのです」と答えます。
そのようなやりとりがしばらく続いた後、沈黙が流れ、その婦人の目から涙が流れ落ちました。
「そういうことだったのですね」と言われ、その婦人は深い納得を得られたようでした。
なぜこの話を書いたといいますと、この「ありのまま」はそのまま「無力」に当てはめることが出来るからです。
果たして私たちアダルトチルドレンは自分の無力を本当に認めることが出来るでしょうか?
ありのパパの正直な思いを申し上げますと、ACが自分の無力を認めるのは難しいことだと感じます。
それで自分が無力を認めていないと感じたときに「こんな自分はダメだ、ダメだ。はじめからやり直しだ!」と居直るとしたら、入り口のところで生涯にわたって堂々巡りを繰り返し、ACにとっての回復は文字通り絵に描いたもちになってしまいます。
そうならないためには「私は自分の無力を認めることに対しても無力」であると、気づいたところから再スタートを切るのです。
もちろんこれは最初から無力を認めることにおいていい加減であって良いといっているのではありません。
そうではなくステップに取り組む入り口で徹底して無力を認めた人が、生涯の中で繰り返し自分の無力を再確認し続けるべきことを言っているのです。
◎回復と平安を祈っています。