無力を単に「認めます」と言うのと、自分の無力が腑に落ちるのとは全く違います。
結果としてプログラムの効き目が全く違います。
この記事ではどうしたら真に無力を認めることができるのかを明らかにし、また無力を認めている証拠についても解説しています。
1.自分を超えた大きな力を信じる前に自分の無力を認める必要がある
12ステップの1と2は続き物のように連続して置かれているために、私たちは「1を踏んで、その次に2を踏みゃ〜いいのね」と思ってしまいがちです。
しかし1と2の間には実は乗り越えることのできない深〜い裂け目が存在します。
その深〜い裂け目を乗り越えられるのは自分の無力を認めた人だけです。
この説明を読んだだけでは「なぁ〜んだ。やっぱり1で無力を認めて、2で自分を超えた大きな力を信じればいいんじゃないか!」と思われるかもしれません。
しかしそれでは自分を超えた大きな力を信じることが、自分の業(わざ)となってしまいます。
自分の業とは神を信じることを我力(がりき)でなそうとすることです。
これは論理的には甚だしい矛盾ですが、そのような論理的に矛盾したことを当たり前のようにやってしまうのが私たちではないでしょうか?
では真に無力を認めるとはどういうことでしょうか?
それは脳の報酬系に依存症回路ができてしまい、そこから強迫観念と渇望現象が発せられる。
「それで私は無力なのだ。私が無力なのは意志が弱いからではなく、人や環境に問題があるわけでもない。ましてや生育歴に原因があるわけでもない」ということが本当に分かるということです。
「そんなこと分かってます!」という方もおられるでしょう。
しかし後出しジャンケンのようで申し訳ないのですが、自分の無力を本当に認めるのは実はできないことなのです。
できないことであるにもかかわらず「私は無力を認めることができてる」と思うのは錯覚に過ぎません。
ではどうすればいいのでしょうか?
少なくとも「今日一日だけ」は無力を認めることができるように、一日を始める前に祈りと黙想をし、その時に自分の無力を確認することです。
そうしたら今日一日だけはなんとか自分の無力を認めることができます。
2.信じる気持ちがあっても無力を認めていなければ無駄
キリスト者であるありのパパはいつも信じる気まんまんでした。
「信じることならお任せください」という感じです。
しかし人生は1mmも変わりませんでした。
あとになって「なぜあれほど信じたのに私の人生は変わらないままだったのだろうか?」と振り返った時に明らかに分かったことがあります。
それは私は信じてはいたが無力を認めてはいなかったということです。
これはキリスト教の言い方でいうと次のようになります。
「a.自分の力ではどうしても自分を救うことができないと認め、b.神様なら私を救うことがおできになる」
ありのパパの偏見に満ちた独善的な理解では多くのキリスト者がa.を認めないままで、ごく当たり前のようにb.の告白をしているように見えます。
ありのパパが初めて12ステッププログラムの存在を知ったのはダルク創設者の方が書いた本を読んだのがきっかけでした。
(ダルクとは薬物依存症者を対象とした中間施設のことです)
ある意味ではそのような特殊な方が書いた特殊な領域に関わる本が一般書店で平積みになっていました。
それで思わず買ってしまったのですが、内容に大きな衝撃を受けました。
我が国で「スピリチュアル」とか「霊的」という言葉は胡散臭(うさんくさ)いとか怪しいの一言で片付けられる存在ですが、この方にはそう言わせない証拠がありました。
それは何十年にもわたるソブラエティ(嗜癖に頼らない生き方)です。
ありのパパがその本を読んで思ったのは「今頑張っている信仰とカウンセリングがダメなら、12ステップを試そう。保険として12ステップは取っておこう」というものでした。
なんでそんなバカなことを考えたのかと今なら思います。
「その考えのためにお前は自分の働き盛りの人生を棒に振ることになるのだぞ!」と過去の自分に言ってやりたいです。
しかし同時になぜそのように考えたのかの理由も今は知っています。
それは自分の無力を認めていなかったからです。
自分の無力を認めていなかったので、12ステップに取り組むことができなかったのです。
3.無力を認めているかどうかのリトマス試験紙
もし本当に自分の無力を認めていれば人様に「お前は本当にダメなやつだなぁ」と言われても、「何だと!もう一回言ってみろ!」などとは返答しません。
「その通りです。私は無力な者です」と応えることができます。
ありのパパはどうかって?そりゃもちろん「あなたの仰る通りです。私は真に無力な者です。あんたとおんなじや!」と応えます(笑)。
最後の文句は余計ですが、ありのパパの個性ということでお許しください。
もちろん内心では腸(はらわた)が煮えくり返っているのに我慢してセリフとして言うのは何の意味もないばかりか却って有害です。
なぜなら不快感情が溜まり、嗜癖を使いたくなるからです。
しかし何回も何回も朝ごとに日ごとに自分がなぜ無力なのかを確認していると自分の無力がお腹にストンと落ちる日がやってきます。
そのような状態では人様に何を言われようと涼しい顔をして「その通りでございます」と応えることができます。
リストマス試験紙の役割は真に無力を認めているかどうかを私たちに教えてくれることです。
だから真に無力を認めていないことが分かっても落胆することはありません。
「あぁ、まだ認められてないんだな」と確認し、「神様、今日一日だけ私が無力を認めることができるようにしてください」と祈ればいいだけの話です。
落胆したり、失望したりする時間がもったいないですね。
それにその失望したり落胆したりしている時に強迫観念が襲ってくるとスリップする危険が飛躍的に高まりますから、私たちには落胆したり失望したりする自由はないということになります。
◎回復と平安を祈っています。