ACが回復するには二つのことに気づく必要があります。
それは見捨てられる痛みを感じようとするのは子ども時代の体験から来ていると気づくことであり、もう一つは見捨てられる痛みを嗜癖として使っているのに気づくことです。
「私たちは自分が依存症になったり、依存症者と結婚したりする。またわざと強迫的な問題を抱えた人を見つけ、その人たちから見捨てられる痛みを感じようとする」(アダルトチルドレンの問題行動4番目)
1.アダルトチルドレンの見捨てられる痛みは子ども時代の体験から来ている
アダルトチルドレンはふたつの相反する欲求を持っています。
それは見捨てられ欲求と見捨てられ不安です。
見捨てられ不安はアダルトチルドレンの問題行動の12番目に登場します。
見捨てられ不安が「見捨てられたらどうしよう〜」と不安になるのとは対称的に、見捨てられ欲求は「やっぱり見捨てられた!この人もあの人も結局は私を見捨てるのだ」ということを確認する欲求です。
誠におかしな欲求ですが、この欲求が自分のうちに確かにあるのを、ありのパパは感じます。
アダルトチルドレンの多くの方も同様に「自分のうちにもある」とおっしゃられるのではないでしょうか?
この見捨てられ欲求は子ども時代に養育者への期待がことごとく裏切られた経験の反映です。
大人になっても別段そんなことはないにもかかわらず「やっぱりね!私は結局は見捨てられる」と納得し、自分からそのような結果になるように無意識のうちに仕向けます。
それでここから回復するためには「自分は子ども時代の見捨てられた経験を故意に再び感じようとしている」ことに気づくのが先決です。
2.アダルトチルドレンは見捨てられる痛みを嗜癖として使っている
次に気づく必要がある点は見捨てられ欲求を嗜癖として使っていることにです。
これは一見わかりにくことです。
なぜならアルコール依存や怒り依存症なら、目に見える物質や行為が存在します。
では見捨てられ欲求に嗜癖するとはどういうことでしょうか?
目に見えませんし、本人も「私は見捨てられ欲求に嗜癖なんかしてません」と言われるかもしれません。
しかし考えていただきたいことがあります。
心が健康な人なら選ばないような人を恋人や伴侶や友人に選んでいないでしょうか?
心が病気の人は養育者だけで充分であるにもかかわらずです。
もう一つ考えていただきたいことは嗜癖とは不快感情から逃れるために使うものですが、あなたは何かから逃れるために、または自分の問題を見ないために見捨てられる痛みを感じようとしているフシはありませんか?
ありのパパは自分の問題を見ないために見捨てられる痛みを味わっていました。
3.回復とは見捨てられる痛みを使わなくても生きていけるようになること
なぜ見捨てられる痛みを嗜癖として使うかと言えば、それは不快感情から逃れるためであり、不快感情は本能が傷つくことにより感情が暴走することによって生まれます。
本能が傷つくのは他人が自分を傷つけたからではなく、自分自身の性格上の欠点からくる行動パターンが真の原因です。
性格上の欠点はおもに四つあります。
それは利己的・不正直・恐れ・配慮の欠如です。
この四つが人それぞれに組み合わさって、その人独自の行動パターンが出来上がります。
ちなみにありのパパの行動パターンは「人が怖いという人への恐れが動機となって不正直な対応をし、トラブルが起きた人々を自分の側に落ち度があるにもかかわらず一方的に恨む」という極めて利己的なものでした。
古い行動パターンを使わないで生きていく方法はたった一つしかありません。
それは古い行動パターンと対極にある新しい行動パターンを全力で生きることです。
そうすると古い行動パターンが顔を出す出番がなくなります。
古い行動パターンそのものは生きている間なくなることはありませんが、意識的に新しい行動パターンを生きることによって古い行動パターンを休止状態に追い込みます。
4.一生涯、見捨てられる痛みと付き合っていく
アダルトチルドレンにとって見捨てられ欲求は嗜癖です。
それは取りも直さず脳の報酬系の依存症回路から発せられているということです。
「見捨てられる痛みを味わうんだ〜」と強迫観念が命じます。
強迫観念によってスイッチが入ると、今度は渇望現象が襲ってきてブラックアウトするまで見捨てられ欲求を味わい尽します。
そして「私なんかどうせ見捨てられるんだ!」というお定まりの結論に行き着くのです。
これを自作自演の一人芝居と言わずしてなんと言えばいいのでしょうか。
依存症回路がいったんできると死ぬまでなくなることはありませんから、生きている限り強迫観念が襲ってきます。
しかし不快感情が存在しなければ強迫観念が教えるウソを容易に見破ることができます。
でも古い行動パターンを無意識のうちに使うことによって本能が傷つくなら、感情が暴走します。
そして不快感情から逃れるために見捨てられ欲求を使いたいという圧力が増大します。
それで私たちは自分の心を精一杯見張っている必要があります。
『力の限り、見張って、あなたの心を見守れ』(旧約聖書 箴言4章23節)

◎回復と平安を祈っています。