共依存とは何かを明確に理解できると回復の軌道に乗ることができる!

全国の共依存症に苦しむ仲間の皆さんが堂々巡りの苦しみから解放されて回復の軌道に乗った人生を歩めますようにと祈りを込めて記事を書きました。

1.共依存とは人間関係に依存する依存症

皆さんはミーティングの自己紹介の時に「共依存症からよくなりたい〇〇です」と言われる方に出会ったことがあると思います。
これらの人々は単に人間関係に依存的という領域を遥かに超えて依存症と言わなければならない領域にまで人間関係への依存が悪化している人々です。

この記事を書いているありのパパもそのうちの一人です。
なぜありのパパが自分が共依存症だと気づいたかというと、それはステップ10の日々の棚卸しをやったからでした。
ちょうど千回ぐらいやったときに自分の中の性格上の欠点からくる行動パターンがもう一つあるのに気づきました。

それは利己的ということです。
ありのパパの利己的とは「人々は私の思った通りに動くのが当然である」という間違った思い込みです。
私(ありのパパ)が私自身のために生きていて他者のためには生きていないように、他の人々だって皆その人自身のために生きているのであり、ありのパパのために生きているわけではありません。
ですからこの地上でありのパパの思い通りに動く人など誰一人としていないという事実に目が開かれる必要がありました。

この共依存症もまた他の依存症と同じく「単に依存的」なのか、それとも「病的に依存的、すなわち共依存症」なのかの区別が存在します。
もちろんその境界は曖昧であり、グレースケールで繋がっていますが、しかし分水嶺ははっきりとあります。

ありのパパの場合は「自分自身へ、他者へ、そして神をも自分の思い通りに動かそうする病的なコントロール欲求」が強迫観念と渇望現象としてやってくるので、自分のことを共依存症者であると認めました。
(強迫観念と渇望現象は依存症の二大特徴であり、脳の報酬系にできた依存症回路からやってきます)

この記事を読んでおられるあなたはいかがですか?

2.共依存症者は思い通りに動かそうすることに対して無力

共依存とは他者を自分の思い通りに動かそうとする依存症のことです。
しかし実は病的なコントロール欲求が働くのは他者に対してだけではありません。

まず自分自身に対して働きます。
共依存症者が「私は自分が正しいと分かっていることを実行できません。なんと惨めな存在なのでしょうか」とミーティングで告白するのは普通のことです。

しかしこれは心の健康な人とは違って、病的なコントール欲求が自分自身に対して働いている結果であることが多いのです。
よくよく聞いてみれば「そんな高い水準を達成することなんか誰もできません」というようなものだったりします。

もう一つは神に対しても病的なコントール欲求が働きます。
共依存症者の信仰の本質は「神様、あなたは私自身のことをよく知っておられると言いますが、私自身のことを一番良く知っているのはこの私です。だから私の人生に口を出さないでください。あっ、でも私が祈った祈りにはすべて応えるように」
まるで神を奴隷扱いしているようです。

しかし自分自身に対するものも、神に対する病的なコントール欲求も目に見えません。
それで自分自身でも気づいていない場合が多いのです。

これに対して他者に対する病的なコントール欲求は目に見えるだけではなく、人間関係のトラブルに発展しがちです。
それで人の注目をよく浴びるので共依存と言えば他者に対する病的なコントール欲求ということになるのですが、実際はもっと多方面に悪影響を及ぼしています。

3.問題は二つある

「問題が山積みです」と共依存症者が言ったとしても、実は問題はたった二つしかありません。
それは強迫観念と渇望現象です。

「あぁ、そうか。問題が多くあるように見えても実はたった二つしかないんだ」ということが腑に落ちたら、解決まで半分の道のりを来たと言うことができます。

これが分からないと我力(がりき)で何とか振り回されないように努力しようとします。
しかしその努力は徒労に終わります。
なぜなら共依存症者は強迫観念と渇望現象に対して無力だからです。
そもそも我力で努力してうまく行ったら無力ではないということになってしまうではありませんか!

このような論理矛盾のようなことをしてはなりません。

ある方は次のように仰るかもしれません。
「神の力で振り回されないように努力すればいいのではありませんか?」
その通りです。
しかし神の力が与えられるのは神の意志を実践しようとしている時に限りますが、そのあなたの努力は自己意志によって自己実現しようとしているものでしょうか?
それとも自己意志を神の意志を実践するために使おうとしているものでしょうか?

この違いを見分けるのは難しいことですが、はっきりと見分ける簡単な方法があります。
それは神の意志を実践しているときには(日々の祈りに応えて)神の力が与えられるからです。
もし祈っていても神の力が与えられないとしたら、それは神の意志を実践していない証拠です。

4.問題の本質はたった一つ

問題は二つしかありませんが、問題の本質はもっと少なくたった一つしかありません。
それは私たちが強迫観念と渇望現象に対して無力だということです。

これが問題の本質なのです。

これがお腹にストンと落ちると我力で無駄な努力をしないようになります。
その努力を12ステッププログラムに取り組むことに振り向けます。

ここが回復の分水嶺と言ってもいいかもしれません。

5.スリップしないためにはどうしたらよいか!

他者に対する病的なコントール欲求の取り扱いは容易とも言えます。
なぜならそれはすぐに人間関係のトラブルに発展しますから。

分かりにくいのは自分自身に対するものと、神に対するものです。

自分自身に対する病的なコントロール欲求の対極にあるのは、自分自身をありのままに受け入れ、常にゆるすことです。
これは相当な期間が必要ですが、いつも自分自身に対して「世の中には仕方がないこともある。それを受け入れよう。大丈夫、気にするな!」と声を掛けてあげます。

神に対する病的なコントロール欲求はどのように取り扱えばいいでしょうか?
これは簡単です。
なぜなら自分が神を支配しようとしているときは決して神の力が与えられないからです。
泣きついても、断食しても、徹夜で祈っても、神の意志を知ることと、それを実践する力だけを求め始めない限り、決して神の力が与えられることはありません。
だから分かりやすいのです。

◎回復と平安を祈っています。

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