真に無力を認めていない人は自分を超えた大きな力を信じることが出来ません。
なぜなら無力を認めることと、神を信じることはセットになっているからです。
1.自分が助けてあげなければならない神?
宗教を持っている人の特徴は自分がその宗教を助けてあげなければならないという意識がとても強いことです。
これは言葉を代えていうと、自分が神様を助けてあげなければならないと思っているということです。
これは要するに自分が神になっているということでもあります。
なぜならその宗教を助けるということは、その宗教の神よりも自分が上位にいることになるからです。
2.自分を超えた大きな力が神
12ステッププログラムの神概念は「自分を超えた大きな力」であり、決してあなたが助けてあげなければならないような神ではありません。
この点を心したいものです。
中間施設で教えられたことはステップの1と2はセットになっているということでした。
問題は二つあること。
それは強迫観念と渇望現象であること。
そして問題の本質は強迫観念と渇望現象に対する自分自身の無力であること。
この二つがステップ1で徹底して気づかなければならないことです。
3.問題の核心は何を信じるかではなく、どのように信じるかにある
12ステッププログラムでは「問題が明らかになったら解決も自ずと明らかになる」と言われます。
どういうことかというと問題の本質が自分自身の無力にあるのだから、当然のこととして解決は無力な自分以外の自分を超えた大きな力にあるということです。
多くの人たちが自分自身の無力を問題にせず、ただ「どんな神を信じるか?」だけを問題にしています。
これは焦点がずれています。
強迫観念と渇望現象に対する自分自身の無力が本当に理解できたら、「どんな神を信じるか?」ではなく、「どのように神を信じるのか」という、こちら側の態度が問題になります。
それで中間施設では「他のステップは完全に理解できるということはないし、完全に実行できることもない。しかしステップの1だけは完全に理解すること、すなわちお腹にストンと落ちることが必要です」と言われ続けました。
もちろんこれは本当に理解できるまでは先に進んではならないということではなく、他のステップを踏むごとにステップの1に戻ってきて「無力を認めるとはこういうことだったのだ」という合点を何度も繰り返すということです。
4.無力を真に認めることができるかどうかが回復のカギ
キリスト教と12ステッププログラムの最大の違いは無力を認めるステップがあるかどうかです。
もちろんキリスト教にも「悔い改める」というステップがあります。
しかしこれには様々な意味合いが込められており、無力を認めるという意味合いはだいぶ薄められています。
AA(アルコール依存症者の自助グループ)の母体となったオックスフォードグループは福音派キリスト教の運動ですが、やはりこれにも無力を認めるステップは含まれていませんでした。
12ステッププログラムを作ったビル・ウィルソンは「傲慢なアルコール依存症者が無力を認めるステップを通らないで回復の道を歩むなら必ず途中で失敗してしまうだろう」と考えて、無力を認めるステップ1を付け加えたのでした。
ありのパパの人生を変えてくれたカギは、この無力を認めることにありました。
5.無力を認めるとは「治る・完全になる」のを諦めること
12ステップが教える無力を認めるとは単に無力を認めるということにとどまりません。
これは完全になることを放棄するものであり、治ることを放棄するものです。
完全になることを願う代わりに成長を求め、治ることの代わりに今日一日の回復を求めるものです。
ですから無力=回復=成長であり、我力=完全=治癒ということができます。
ありのパパ自身のことを言えば、持っている依存症がアダルトチルドレンだけのときは依然として治ることや完全になることを求めていました。
しかし怒り依存症になったとき、グズグズしていると刑務所行きになると考えたときに腹が座りました。
これを底付きと言います。
EAの「How It Works」には「このプログラムの逆説的なところは無力になることで助けてくれる力を発見することである」(14頁7行目)と書かれてあります。
ビル・ウィルソンは「宗教を持っている人は確かに強い信仰心を持っている場合が多いが、彼らは概して自己開示することに問題がある。この自己開示能力の低さが彼らの回復の妨げになっている」と言いました。
宗教を持っている人々はどちらかというと「自分を助けてくれる神」ではなく、「私が助けてあげないといけない神」を信じている場合が多いように、ありのパパは感じています。
「でもね、本当の神様ならあなたの助けなど必要ないよ」
それこそ本当に無駄な努力は止めたほうがいいです。
人生のどこかで「私が助けてあげるのではなく、助けてもらわなければならないのはこの私である」ということに気づく必要があります。

◎回復と平安を祈っています。