他人や自分自身や神でさえも自分の思い通りに動かそうとする欲求を病的なコントロール欲求と呼びます。
またそのような欲求を持っている人のことを共依存症者と言います。
まず病的なコントロール欲求と健全なコントロール欲求の違いを見ます。
次に病的なコントロール欲求からどのように回復していけばよいかを見ていきます。
1.病的なコントロール欲求とは何か?
コントロール欲求には2種類あります。
一つは健全なコントロール欲求です。
それはコントロールすべき時とすべきでない時をわきまえ、コントロールするにしても程々を心がけます。
もう一つのコントロール欲求は病的なものです。
これは片っ端から支配・コントロールしようとします。
そして限度がありません。まるで無間地獄です。
相手構わずコントロールしようとするのは強迫観念から来るものであり、ほどほどのところで止めることができないのは渇望現象から来ます。
病的なコントロール欲求には強迫観念と渇望現象がありますから、これは依存症です。
この依存症を共依存症と言います。
ここからはどうやって回復するかをみていきます。
2.親替え(ステップ3)
自己意志は本来は自分自身の愛ある親の役目を果たすものですが、うまく行きませんでした。
気がついてみれば私たちの人生は思い通りに生きていけなくなりました。
それで自己意志だけで愛ある親の役割を果たそうとすることを放棄し、これからは神の意志と協働で自分自身の愛ある親の役割を果たすことを決心しました。
これが親替えであり、アダルトチルドレンがステップ3でなすべき決心です。
3.霊的目覚め(ステップ4〜9)
共依存症者がなぜ他者や自分や神をコントロールしようとするかというと不快感情から逃れるためです。
不快感情には4つあり、恨み・罪悪感・恐れ・後悔です。
根本的な解決策は行動パターンを変えることによって本能が傷つかないようにし、その結果として感情が暴走しないようにすることです。
感情が暴走しなければ不快感情から逃れる必要もなくなりますから、共依存症者にとっての嗜癖行為である病的なコントロール欲求に陥る必要もなくなります。
もちろん依存症回路が脳の報酬系にいったんできれば死ぬまでなくなることはありませんから生きている間は毎日のように強迫観念と渇望現象が襲ってきます。
ただ感情の暴走が伴わない強迫観念は昼間に出るお化けのようです。
怖くとも何ともありません。
これを「強迫観念が教えるウソを容易に見破ることができる状態」と言います。
これが霊的に目覚めている状態です。
12ステッププログラムに取り組む目的は霊的に目覚めるためであり、徹底して取り組むならすべての人に与えられると約束されています。
4.日々の棚卸し(ステップ10)
ステップ10と11は共依存症者のためのステップとも呼ばれます。
日々の棚卸しに継続的に取り組んで実感することは、病的なコントロール欲求がいかに自分の中に深く根を張っているかということです。
これは確かにステップ4の一回限りの棚卸しでは如何ともしがたく、ステップ10の日々の棚卸しで生涯にわたって取扱うべきものであるとわかります。
日々の棚卸しは感情が動くたびに時をおかずにやることが大切です。
a.どの感情が暴走したのか?
恨みか、罪悪感か、恐れか、後悔か。
b.どの本能が傷ついたのか?
共存本能の自尊心か、対人関係か?
安全本能の感情面での安全か、物質面での安全か?
性本能の秘密の性関係か、公認の性関係か?
それとも将来野心の中のどれかか?
c.自分の側の落ち度の正確な本質は何か?
利己的か、不正直か、恐れか、配慮の欠如か?
ここまで来ると大体の場合において共依存症者の自分が怒ったのは「利己的」が原因だったことがわかります。
「人は私の期待したとおりに動いて当然である」という間違った思い込みがあるのです。
この間違った思い込みが強迫観念が教えるウソなのです。
ですから強迫観念がウソを教えるたびに自分自身に言い聞かせます。
「私が私自身のために生きていて他人のためには生きていないように、他人だって皆その人自身のために生きているのであり私のために生きているわけではない」
あるところまで来るとまるで憑き物が落ちたかのように心がふっと軽くなる瞬間があります。
そして自分のことが笑えてきます。「俺ってバカだな」という具合です。
こうして共依存症者は生涯にわたって病的なコントロール欲求に打ち勝ち続けることができます。
5.祈りと黙想(ステップ11)
共依存症者の病的なコントロール欲求は神にも発揮されます。
「神様、あなたは私のことをご存知だと言うけれど、私自身のことを一番良く知っているのはこの私です。ですから私のことに口を出さないでください。でも私の祈りには全部応えるように」
まるで神を自分の奴隷のように扱っています。
実はこれが共依存症者が持つ『信仰』というものの実態です。
しかし神の力は神の意志を実践しようとしているときだけ与えられるものです。
決して自己意志を実現しようとしているときには与えられません。
それで共依存症者の信仰はいかに力強く見えても空回りするばかりです。
共依存症者は人生のどこかでそのことに気づかねばなりません。
そして自己意志を放棄し、神の意志を知ることと、それを実践する力だけを求める人生へと踏み出すのです。
これを「ステップ3でささげた自己意志が、ステップ11で神の意志としてもどされる」と言われます。
神の意志を実践する人生を踏み出したら、日ごとに朝ごとに神の意志を実践するための力を祈り求めます。
中には神の意志を実践しようとしたら自動的に神の力が与えられると錯覚している仲間もいます。
しかしそうではありません。もしそうならステップ11の文言は「私たちは神の意志を知ることを求め、それを実践した」と書かれてあったでしょう。
しかしそのようには書かれずに「私たちは神の意志を知ることを求め、そしてそれを実践する力だけを求めた」とあります。
これは1930年代の私たちの仲間も同じ問題に直面し「神の意志を知っただけではどうにもならない。そもそも私たちには神の意志を実践する力がない」と思い至り、それで今のような文言になったのだと推測します。
それでアメリカの12ステップグループの人たちは朝起きるとベッドの脇にひざまずいて祈ります。
ありのパパは布団に寝ていますので、朝起きると頭を枕にこすりつけて「神様、神の意志を知ることと、それを実践する力だけを求めます。どうぞ今日一日分の神の力を与えてください」と祈ります。
そうするとちょうど一日分の神の力が与えられます。
人生はこのような営みの繰り返しの上に築き上げられるものであると今は実感しています。
ジョー・マキューは「私たちが幸せになるのに他の人のように多くのものが必要とは限らない。
私たちにとっては『神の意志を知ることと、それを実践する力だけを求める』生き方だけで幸せになるのに充分である」と言いました。

◎回復と平安を祈っています。