依存症は治らない病気とはアルコホーリクス・アノニマスだけの主張ではなく、現在では医学の世界の常識でもあります。
そこで無力を認めるとはどういうことであり、具体的には何を意味しているのかを解説します。
目次
1.「無力を認める」ステップがあるのは12ステッププログラムだけ
AAの母体になったオックスフォード運動には実はステップ1の「無力を認める」に当たるものはありませんでした。
しかし12ステッププログラムを作る際にビル・ウィルソンは「傲慢なアルコール依存症者が『無力を認める』という門を通らないで回復の道を歩み始めるならば、途中でみんなスリップしてしまうだろう」と考え、ステップ1の「無力を認める」を付け加えました。
ありのパパがかつて属した教会はオックスフォード運動の末裔と言っても良い教会でした。(ただし教理的には関わりはありません)
実践的聖潔(きよめ)という概念を予め知っていましたので12ステッププログラムの「しらふ」という概念を理解し受け入れることにも障害はありませんでした。
2.なぜ「無力を認める」ことが生命的に重要なのか?
12ステッププログラムとオックスフォード運動のプログラムの違いの一つは「無力を認める」というステップがあるかないかです。
しかしこのことはありのパパにとっては生命的に重要でした。
なぜなら何週間か、あるいは何ヶ月間かの聖い生活を行うと、スタートは「私は罪人の頭(かしら)です」みたいな感じだったのに、聖い生活が続くにつれて「俺も大したもんではないか。やればできる!」みたいな感じになってきます。
ここで忘れてはならないことがあります。
それは神の力は私たちが無力を認めているところにだけ流れ込んでくるということです。
「いい気になる」とは何を意味しているかと言うと、それは神の力が流れてくる水門を自分で閉めているということです。
自分で水門を閉めておきながら「おかしいな。何で神の力が私の生活に流れ込まなくなったのか?」などと寝ぼけたことを言っているのです。
「寝言は寝ているときに言ってほしいものです」とその当時の私に言ってやりたいです。
その意味でホーリネス系教会の教理である全き聖潔には構造的な欠陥・弱点があったと言わざるを得ません。
それで12ステッププログラムの世界にやってきたときに、初めに無力を認めるステップが置かれていることにすぐに合点がいきました。
この無力を認めるということなしにはシラフ(聖い生活)を長期間にわたって続けることは絶対にできないからです。
3.無力の対象を明確にすることの大切さ
棚卸し作業をお手伝いしていて気になることがあります。
それは「あなたの無力はなんですか?」とお尋ねしても、明確に即座に答えることができる方がとても少ないということです。
多くの方が頭をひねり「何でしょうかね〜」と言われるのです。
ありのパパは心の中で「ステップの5まで来て『何でしょうかね〜』はないもんだ」と感じつつ、「それではステップ5の作業が終わるまでに何に対してなのかををはっきりさせましょう」と答えます。
ステップ5に取り掛かるということはやる気がある証拠です。
しかしそのやる気を空回りさせてはなりません。
しっかりとステップ1から踏むことです。
スキップしてはなりません。そうでないとスリップします。
4.治ることを求めている限り回復しない
「依存症は治らない病気。しかし回復は可能な病気。だから回復に専心しよう!」
こう教えられたときには少なからずショックでした。
ありのパパはおこがましく、お恥ずかしい話ですが、若いときから少しも汚(けが)れのない自分、徹頭徹尾聖い自分になりたいと願ってきました。
その努力は全て無駄であり、かえって実際的なシラフの生活のためには有害であるとさえ言うのです。
治ることを求めている限り回復しません。
また完全になることを求めている限り成長はありません。
これは二者択一の選択なのです。
回復を選ぶなら治ることを放棄しなければなりません。
成長することを願うなら完全になる努力を止めねばなりません。
ある人はこう質問されるでしょう。「なぜ治ることを求めつつ、回復を求めてはいけないんですか?」
答えは「回復に全力を尽くさずに回復できるほど依存症・アダルトチルドレン&共依存症は甘い病気ではないからです」
治ることと回復することの両方を求めることはエネルギーが分散するということです。
回復したいと願うならエネルギーを一つに集中することがどうしても必要です。
5.回復とはどのようなものか?
心理的抵抗はありましたが、論理的矛盾はなく整合性のある教えであり、実際に幾万というシラフを維持する証人がいましたので、この教えをありのパパは受け入れました。
そうしたところすぐにも効果が現れました。
そして効果が波及する範囲が徐々に拡大していきました。
初めは文字通り「スリップしないだけ」でした。
怒りを爆発させないだけであり、刺激に嗜癖しないだけでした。
感情の暴走は止まらず、とても苦しかったのを覚えています。
内心「回復したとは言っても、こんなもんか〜」と思うところもありました。
それで「嗜癖が止まっただけでも御の字ではないか!何を贅沢なことを言っているのか?」と自分に言い聞かせました。
しかし日々の棚卸しを始めとする12ステップを毎日踏むことによって根本的な変化が訪れるようになりました。
それは感情の暴走がやんだのです。
恨みも罪悪感も恐れも後悔の感情も暴走しなくなりました。
そうすると強迫観念が教えるウソを容易に見破ることができるようになりました。
これはまるで真っ昼間に出てくるお化けのようでした。
以前はこんな奴のウソに騙されていたのかと呆れるばかりです。
また内的理解の深さにおいても深まりゆく経験となりました。
そのことによっても「これは本物だ」と確信しました。
平安が心に満ち溢れ(かつては「平安ってなんですか?」という感じでした)、かつてはできなかったことを神が代わりにしてくれているということを実感するようになりました。
人格が作り変えられ、人間関係が改善され、その結果として人生がどんどん良くなりました。
そしてそれは今でも続いている過程なのです。
ありのパパに訪れたと同じことが皆さんの心と人生にも訪れますようにと祈っています。
◎回復と平安を祈っています。