twitterではないつぶやきがある。神に対して罪になるつぶやきがある

最近は「つぶやき」というとtwitterを連想しますが、そうではないつぶやきがあります。
そのつぶやきは神に対して罪を犯すことになる場合もありますし、そうでない場合もあります。

①どんなつぶやきも罪になるのか?

つぶやく

「あなたがたは私たちに対してつぶやいているが、それは主(神)に対してつぶやいていることにほかならないのです」[出エジプト16:07]

つぶやきとは広辞苑によると「ぶつぶつと小声で言う。くどくどと独り言を言う」とあります。
普通、小声で独り言を言うときは人に聞かせるためではありません。
ただ自分の心の中で語っていることが自然に外に出ていくのです。
神はその独り言を「独り言だから、しようがないよね」とは仰らず、それは神に対する罪であると言われるのです。

カルト化した教会の牧師が、信徒に「つぶやきは罪である」と言って、正当な不満を押しつぶすことがあります。
これはどのように理解すればよいのでしょうか。
答えを出す前に初代教会の例を考えてみたいと思います。

②初代教会とつぶやき

初代教会の宣教記録である「使徒の働き」には、食糧の配給について指導者に対してつぶやきが起きたことが記されています。
しかし聖書はこの件について「これは主に対してつぶやいているのと同じだ」とは言っていないのです。
カルト化した教会の牧師は、出エジプト記のところを引いて、自分に都合の良い間違った解釈をしますが、決して使徒の働きの食糧配給についての記事は引用しません。
それは自分に都合が悪いからです(笑)。

カルト化した教会の牧師の場合だけでなく、それ以外の場合でも同じようなことが書かれてある他の聖書個所(特に新約聖書)を参照・比較してみることが大切です。
そして同じような事件なのに、神の対応が異なっているのはどうしてなのかを考えるのです。
このようにして考える訓練を行っていくとき、簡単にはだまされない人間となることが出来ます。

③神の対応は表面的に見ると異なって見えるときがある

皆さんは出エジプトと使徒の働きで、なぜ神の対応が異なっているとお考えでしょうか?
どうぞ考えてみてください。
そしてそれをコメント欄に書き込んでください。
ただ一つの正解というものはありません。
私たちが想像して、推測するだけです。
ですから安心して「私はこう考える」というところを書き込んでください。
お待ちしています。

④つぶやきに聞こえないつぶやきとは?

ところで形を変えたつぶやきというものが存在するのをご存じでしょうか?
ありのパパの口癖に「なるようになる」というのがありました。
大抵は、その前に「心配しても仕方ない」とか「考えても仕方ない」という言葉が来ます。
最近気づいたのですが、これはつぶやきの変形なのです。
この「なるようになる」は結局「神様なんかいらない」とか、「神様はわたしの問題に介入してくださらない」と言っているのと同じです。
このことに気づいたので、このつぶやきが心に浮かぶと即座に「神様が必ず栄光を表してくださる」という告白を唱えるようにしています。
そうすると、無神論的虚無感から即座に解放されるのを感じます。
自分の心と人生に、神の介入を招き入れるために必要なことは告白です。
この告白に応じて神が働いてくださるのです。

◎平安と祝福を祈っています。

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