日本の教会の弱点は何でしょうか?
この弱点をしっかりとわきまえ、克服への歩みをなすことが教会の成長に繋がると信じます。
1.日本の教会特有の問題が分からないとうまくいかない
かつてチョー・ヨンギ先生が「あなたがたは聖会から聖会へ渡り歩いていないか?そのようなことを止め、ひざまずいて神の応答が来るまで祈り始めなさい」と言われたことがありました。
また、聖会で祈りの秘訣を教えられ、聖会の最後に祈るように勧めるのですが、日本人参加者の誰も祈り始めなかったときがありました。
チョー・ヨンギ先生があきれて「祈りなさい!祈るのです!」と絶叫されました。
神学生であったありのパパは祈り始めたのですが、周りから祈り声が聞こえたのは数分でした。
それで不思議に思い、目をうっすらと開けてみると、隣の若い女性信徒はシステム手帳を開いて予定を確認していたのです!
神に祈ることができないという事実は、神にさえ心を開くことができないということを表しているのです。
ありのパパは「この問題を素通りして、声高にリバイバルを叫んだところでリバイバルが起きるわけはない」と納得したのを覚えています。
このこと一つを取ってみても、日本の教会には日本特有の問題があることに気づきます。
それを時刻の現実を無視して外国から方法論を直輸入しても、うまく行くわけはないのです。
鵜呑(うの)みにするのでもなく、また愚かに総否定するのでもなく、論理的に理性的に分析することを止めてはなりません。
ただそれだけが日本においてキリスト教が受容されていく道であると考えます。
2.目前の問題から目を背け、人が与えてくれる方策に安易に飛びつく
ある教会の長老さんがいみじくもこう言われました。
「日本の教会はイベント屋のようです。次から次へと諸外国から講師を引っ張ってきて大会を開きますが、教えられたことを継続的にやる気などさらさらないのです。飽きるとまたどこかに良い講師はいないかと探し回り、その講師を引っ張ってきて大会を開き、ずっとイベントを開き続けているのです。」
ありのパパはこれを聞いてうなりました。
あまりにも当たっていたからです(笑)。
自分の問題から目をそらし、きらきらした夢のような話に飛びつきます。
思考を停止し「とにかくこれをやっていればうまく行くんだ」と念仏を唱えるように、新しい方策に飛びつき熱心に実行します(ただし、飽きるまでです)。
そして飽きたころに新しい方策が紹介され、またそれに飛びつき熱心に実行します。
普通ですと、なぜ今までの方策ではだめだったのか、なぜ効果がなかったのかが検討され、その不足分を補うために新しい方策が導入されるのです。
しかし前回の方策をなぜやめたのか、教会員の誰も聞きませんし問題にしません。
なぜならみんな飽きていたので、新しい何かが欲しかったのです。
こうして生きている間、ず~と同じことをやります。
3.簡単に諦めてしまう
ある時まで一緒に熱心に活動していた方が、急に人が変わったように「もういい。こんなことをしても何にもならない」と言い始めることがあります。
もしこれが様々なことを考え尽くした上での結論であれば、それはそれで良いのです。
人には人権があり、その結論は尊重されるべきだからです。
しかし大概は、始めるときに考えずに始めたように、止めるときも大して考えずに投げ出してしまうのです。
検討もせずになぜ止めるのかと聞くと「だって効果がなかったから」と答えます。
考えるのは人任せで、結果だけ欲しいというのが、私たちの特徴の一つとなっていないでしょうか。
4.人の真似では成功はおぼつかない
ありのパパの神学校のときの同級生がこう言ったのを覚えています。
「誰かに成功してほしい。そうしたら私は厳密にその人のやり方を100%まねて、実行する。私はまねるのだけは自信がある」
しかし今に至るまで、この人を模倣すれば良いというモデルは現れていません。
なぜなら一人一人が置かれた立場で、行わなければならないことが異なるからです。
そのためには考えるという作業が必須のものとなります。
5.自国の文化や、抱えている問題を分析しよう!
もうそろそろ諸外国から輸入された新しい方策に飛びつくのを止めるべきではないでしょうか。
それに向ける時間や労力を、日本という国の特有の文化や、日本社会が抱える特質や問題を分析することに当ててみてはどうでしょうか。
そしてそれをブログなどで発表するなら多くの啓発が与えられ、それが日本宣教の突破口となると期待し信じます。
(止めようと言っているのは、考えなしに飛びつくことであり、諸外国からの新しい方策を導入することを止めよと言っているのではありません。誤解のありませんように。)
◎平安と祝福を祈っています。