さまざまな経験をしたが、それが自分の対人関係能力に反映されていないと感じる方からのご相談です。
このように感じる人は案外多くおられるものです。
問題解決の鍵はどこにあるのでしょうか?
ご一緒に考えてまいりましょう。
1.ご相談内容
お久しぶりです。くまです。
いつもブログを楽しみに読んでいます。
さて、今回は悩みがあり質問です。
私は、過去の記憶や経験が積み重なりません。
もし、積み重なっていれば、今の私はもっと堂々と自信を持って生きているだろうし、他者との関わり方も違ったものになっているのではないかと思うのです。
例えば、私はアラフォーなので、ある程度は人生経験があります。
いろんな事に好奇心があるので、いろいろとやってきました。
続いている物はありませんが、いろんなところに旅行に行ったり、体験したり、いろんな人と出会っています。学びもそれなりにしてきました。
でも、そのことが話題に出ても曖昧な記憶なので思い出せず、話題に入れません。自分の意見がありません。
いろいろな経験したことが積み重なっていれば、もっと楽しんで人と話せると思います。
今、私はあまり話さない人と思われています。
人の話題に上手く入っていけませんし、自分から話始めるなんて、こわくてできません。
子どもと関わる仕事をしているので、自分のことを話したり、経験からの励ましをしてほしいと言われますし、私もしていきたいです。
経歴(大したものではないですが)をみて期待されていることを言われたりします。
私は大人になってからクリスチャンになり、それまではフラフラしていたり、ろくな生き方をしてこなかったので、隠したいことや虚しい思い出も多いです。
ダラダラと書きましたが、経験が重なっていないことに対する私の見解
●自分に自信がないので過去の経験を否定し打ち消している
●話をアウトプットしていないので、記憶に定着されず忘れている
●人と会話ができない、自分の意見を言えないのは、人に興味がないから。(自分のことばかり考えているから)
などと考えています。
もったいない生き方をしたくありません。
アダルトチルドレンであることが関係していますか?
対処方法があれば教えていただきたいです
2.相談へのお答え
こんにちは、くまさん。
ご相談を下さり、ありがとうございます。
お答えする前にありのパパのスタンスをご説明しておきます。
それは年をとった者が、若い人の悩みを聴いて微笑ましいと感じるということです。
トンネルを抜ければ、すべてのことは繋がっていたことに気づきます。
そしてそのすべてが自分にとって必要な神からのプレゼントであったことにも気づかされます。
そのような前提でお答えさせていただきますね。
①経験は積み重なっていくものではない
経験が積み重なっていくという考えはセキュラー(世俗主義)から来るものです。
聖書の思想はそうではありません。
積み重なっていくという考え方は努力することによって救われるという考え方と共通点があります。
律法が与えられたのは[律法を守ることによっては誰一人救いに到達することはできない]という理解を持つことが真の目的でした。
そんなことをしないで初めから「信じることによって救われる」と教えてくれたら良かったのにと人間的には思います。
しかし人間には「やってみたけど駄目だった」という体験がどうしても必要なようです。
この体験を持たない人は信用ができません。
なぜなら言うことが状況の変化に応じてコロコロと変わるからです。
②突き抜けていく経験を持つことが物事を経験する意義
信じるだけで救われるという教えを完全に受け入れることができるのは、努力することによっては誰一人救いに到達することはできないと体験的に知った人だけです。
「自分の力ではどうにもならなかった」という自覚を持つことが無力を認める前提です。
ここまで書いたことをまとめると、次のようになります。
積み重なっていくのではなく、「これをやってみたけど駄目だった」という理解、すなわち突き抜けていく経験をもつために物事を経験するのだということです。
3.ありのパパの例
18歳までは自己意志を我力で実現しようとしていました。
しかしそれでは不毛な結果にしかならないことを悟り、今度は宗教に頼りました。
キリスト教そのものは良い信仰ですが、その信仰を信じているありのパパの心は良いものではありませんでした。
神の力を自己意志を実現するために利用しようと考えたのでした。
これは偽善にほかなりません。
神の力は神の意志を実践しようとするときにだけ与えられるものです。
次にはカウンセリングに頼りました。
カウンセリングもキリスト教と同様に良いものですが、それを活用するありのパパの心は良いものではありませんでした。
カウンセリングを学ぶことによって神の意志を正確に知ることができました。
しかし神の意志を実践するために神の力を求めませんでした。
なぜなら神の意志を実行しようとしたら、求めなくても自然に神の力は与えられると高をくくっていたからです。
旧約聖書にある、神が与える食物であるマナを毎朝早く起きて集めたという記事を私は自分自身に適用することをしませんでした。
ですからカウンセリングで問題の正確な本質が分かっても解決策を知らなかったので、その実践は徒労に終わりました。
そこでようやっと自己意志を神の意志に変え、我力を神の力に変えて生きていく決心がつきました。
ではキリスト教信仰もカウンセリングも全ては無駄だったのでしょうか?
いいえ、決してそんなことはありません。
12ステッププログラムを実践する多くの方々が口にされるのは「無償で愛してくれる神の概念を受け入れることが大変難しい」ということです。
幸いなことにありのパパには全然難しくありませんでした。
神はいつでも私の味方であり、共にいてくださるお方であり、ありのままの自分を受け入れてくださる私の愛ある親であられました。
また、分かち合いの中でよく聞くのは「まるごと自分を受け入れるのが困難である」ということです。
これもありのパパには全然困難ではありませんでした。
それは何十年にもわたって自己受容と他者受容を繰り返してきたからです。
ここで大切なことは物事の経験が積み重なってきたのではないということです。
そうではなく突き抜けてきたのです。
しかし全てのことは相働(あいはたら)きて益(えき)となりました。
4.自分から話そうとするな
くまさんは自分から話すことができないと言われますが、それでいいのです。
自分のことばかり話す人は表面上はともかく本音の部分で人に嫌われるものです。
だからそれでいいのです。
ただ日本人の多くは自分から話を切り出すのが苦手という人が多いので、こちらから水を向ける、相手が話し出すきっかけを作るのは大切なことです。
そうしないとお互いにむっつりということになりますから(笑)。
ここで出てくるのが「すべての人に敬意をもって接することに全力を尽くす」という生き方です。
とにかく何も考えないで、目の前にいる相手に敬意をもって接することだけに全力投球するのです。
そうしたら自然に口が開き、言うべき言葉が与えられます。
5.ふらふらしていた経験は宝物
多くの人にとって、くまさんの隠しておきたい経験はよだれが出るほどの大好物です(笑)。
特にクリスチャンホームに育った二世のキリスト者にはふらふらしていた経験がありませんから、それを聞かせてあげるだけでも彼らは喜びます。
そして本質的な部分を教えます。
そうしたら彼らは「ふらふらする経験に魅力を感じていたが、そうでもないようだ」と考えるようになります。
愚かな経験であればあるほど、他人は喜びます。
なぜなら「自分はそれほどでもない」と安心するところもあるのでしょうが、それ以上にそれでもなお生き生きと、くまさんご自身が生きておられるという事実に励ましを頂戴するからです。
(以下はこの記事を読まれた相談者との応答を相談者の了解を得て掲載しています)
ありのパパさん
いつも丁寧に相談に答えてくださり、ありがとうございます。
4.と5.の内容を読んで、今のままで良いのだと安心できました。
2.のタイトルと2.の最後の文章の意味を理解できませんでした。
>積み重なっていくのではなく、「これをやってみたけど駄目だった」という理解、すなわち突き抜けていく経験をもつために物事を経験するのだということです。
「駄目だった、という理解」が「突き抜けていく経験をもつために物事を経験すること」に繋がりません。
「駄目だった」経験→「突き抜ける」ことになる?(キリスト教の教えである)「救われること」に関しては理解できます。(生き詰まり、神様によって罪が赦されて自由になる)
物事を経験することに関してはどうとらえたらよいのでしょうか?
トライ&エラーを繰り返すことではありませんよね?
それは人間の努力によることです。
開き直ること、でもありませんよね?「駄目だった」経験が点で、いつかそれが繋がって線となり、振り返ると突き抜けた生き方になっているということでしょうか?
何かに人生を特化して、それによって突き抜ける人生とは何かが分かるということでしょうか?悟りが鈍い私にもう少し教えてください。
宜しくお願い致します。
こんばんは、くまさん。
”救われることに関しては理解できます。(生き詰まり、神様によって罪赦されて自由になれる。)”
この「救われることに関しては理解できる」ということをすべてのものに適用するのです。
頑張って救われようとしたけど駄目だった。
その駄目だと諦めた自分に神の救いが一方的に無代価で適用された。
この原理を、人間関係に、キャリア形成に、教会形成にと、すべてのことに適用します。
”トライ&エラーを繰り返すことではありませんよね?それは人間の努力によることです。”
いいえ、そうではありません。
トライ&エラーを繰り返すことによってのみ神の意志に到達することができます。
”「駄目だった」経験が点で、いつか繋がって線となり、振り返るとそれが突き抜けた生き方になっているということでしょうか?”
そのように理解することが可能です。
どうぞ、祈りと黙想を通して神との意識的なふれあいを深め、神の意志を知ることと、それを実践する力だけを求めてください。
これがトライ&エラーを繰り返すことによって神の意志に到達するということでもあります。
平安と祝福を祈っています。
さっそくのお答えをありがとうございました。
「やってみたけど駄目だった」経験は、自分が無力であることを認識させてくれて、それにより神様に頼って再び行うことで、突き抜けられるということですね?
なんとなく理解しました。
結局、私は、頑張って我力で生きていこうとしていることがバレバレですね。
早くこの高慢が砕かれていきますように。神様との意識的なふれあいを求め、私の願いではなく神様の意志を知ることができますように祈ります。
「やってみたけど駄目だった経験」は、今の私の生き方全般に当てはまると気づきました。
「何もできない自分」を認めるのが嫌だった、と気づくことができました。
自分が何かできるようにとか、人より優れているように見せたくて頑張ってしまい、空回りしていることが分かりました。できなかったら「やっぱりどーせ上手くいかない自分」って諦めていました。
今まで、セルフイメージが低いのが問題でうまくいかないと思っていました。
セルフイメージを治し変えなければ、私は変われないと思っていました。
しかし、セルフイメージが低いということは、ありのままの自分を受け入れられないことからくる偏見で、間違ったセルフイメージだと分かりました。自分自身を受け入れる時、セルフイメージが低いも高いもなく、正しいセルフイメージを持つことができ、それが大切なんですね。(←合っていますか?)
まずは何もできないと思う自分を受け入れるところから始めたいと思いました。
そんな私を神様は愛し、受け入れて、呼んでくださったのですから。ありのままで神様の前に出て、神様がお造りになった自分自身になりたいと思います。
そして神様のご計画の中を歩んでいきたいです。図々しいお願いですが、もし可能であれば、ありのパパさんが思う「正しいセルフイメージとは何か」を教えていただけたら嬉しいです!
今、それを考えています。
聖書が語る「人間とは」というところまで考えなければいけないですかね?
簡単で結構ですので、書いていただけたら感謝です。いつも本当に丁寧に相談に答えてくださり、心から感謝します。
このブログを多くの方が読み、同じような悩みをお持ちの方の
解決のために用いられますように、お祈り致します。
こんにちは、くまさん。
気づきが溢れる応答を下さり、ありがとうございました。
ともに回復の道を歩んでまいりましょう。
さて「正しいセルフイメージとは何か?」について、ありのパパの考えを書いてほしいと言うことですね。
本当は低いセルフイメージもなく高いセルフイメージもありません。
あるのは正しいセルフイメージか、間違ったセルフイメージです。
私たちが低い自己評価に悩むのは原因があります。(アダルトチルドレンの問題リストの11番目)
それは「人々は自分の期待したように動いて当然である」という間違った思い込みを持っていると、現実に失望します。
なぜなら事実は「私が自分自身のために生きていて他人のためには生きていないように、他の人たちだって皆その人自身のために生きているのであり、私のために生きているわけではない」からです。
しかしこの現実をアダルトチルドレンや共依存症者は誤って解釈します。
「人びとが自分の思ったように動かないのは、人をコントロールする私自身の能力に欠陥があるからだ」
それで自分自身を厳しく裁き、自己評価が非常に低いという現象が現れます。
解決策は「人は自分の期待したとおりに動くべきである」という強迫観念が教えるウソに対して、「いやそうではない。もともと私には人をコントロールする能力などないのだし、そもそも人々にも私の思ったとおりに動かなければならない義務などこれっぽっちもないのだ」と自分自身に言い聞かすことです。
このような営みを続けていると段々と低いセルフイメージから解放されてきます。
間違った思い込みから脱すれば脱するほど、ありのままの自分でOK!と言うことができるようになります。

◎平安と祝福を祈っています。