ありのパパが怒り依存症になった経緯と、そうなった真の理由

怒り依存症になった原因

どんな人であっても好きで依存症になったわけではありません。
しかたなく気が付いたら依存症になっていたのです。
しかし依存症からの回復が進んでくると、なぜ自分が依存症になったのかの真の理由を知るようになります。

        

1.単なる怒りん坊と怒り依存症の違い

単なる怒りん坊は怒りやすい性格の持ち主であり、人からは瞬間沸騰機と呼ばれることもあります。

これに対して怒り依存症は怒ることと、怒りを爆発させることの中間地帯が存在しません。
ちょっと注意しようと思って口を開いたのに、口を開いた瞬間にもう怒鳴っているのです。
このような状態の人のことを怒り依存症者と言います。

        

2.敬虔なクリスチャンがいかにして怒り依存症者に成り果てたか?

ありのパパは18歳の時にキリスト教に入信しました。
それ以来、本当に怒ったことがありません。
実はそれ以前にも怒った記憶がありません。
聖書にも「怒ってはならない」と書かれてあり、所属する教会はホーリネス系の全ききよめを信じる教会でしたので、怒ることなど厳禁でした(笑)。

しかし現実の社会で生きていると、そこには良い人ばかりではなく、悪い人も無礼者も利己的振る舞いを何とも思わない人もいます。
周りすべてを良い人に囲まれていれば、怒らないで生きていくことも可能ですが現実はそうではありません。

そうするとどうなるかと言えば、ありのパパはただただ一方的にやられっぱなしのままでした。
それで青年期の後半に差し掛かった時には心の中で「あの時に怒鳴り返してやればよかった。そうしたら気持ちが清々しただろうに」と考えるようになりました。

そのようなときに満を持してと言いますか、千載一遇のチャンスが訪れました。
ありのパパが怒鳴っても当然であるというようなシュチュエーションが到来したのです。
それで思いっきり怒りを爆発させました。
そうしたところ不思議なことが起きました。
それは心の中で「私は怒鳴っているときだけ本来の自分でいることが出来る」という思いでした。
それからはまるで坂道を転げ落ちるように気がつけば怒りに嗜癖している状態から怒り依存症と言わなければならない状態に悪化していきました。

        

3.ついに問題の核心に到達する

徹底して12ステッププログラムに取り組むようになったときのことですが、「もう一人の人(シェアリングパートナー)」に棚卸し表をお見せする前日になっても棚卸表は白紙のままでした。
24時の鐘がなり、翌日になったところで仕方なく棚卸表を書きはじめました。
自分でもなぜこんなに棚卸し作業に抵抗しているのか理由が皆目分かりませんでした。

それからもステップ10の日々の棚卸しをするのに抵抗を感じました。
しかし「日々の棚卸しをしないとスリップしますよ!」と脅かされていたのと、日々の棚卸しをしないと必ずスリップするのが自分でも分かっていましたので、感情が動くたびに日々の棚卸しを実行しました。
(はじめの三ヶ月間は感情が動いても動かなくても棚卸し表に書き込む作業を毎日やります)

日々の棚卸しを千回やったところで気づいたことがあります。
それは自分の内心の隠された本音です。
それは「人々は自分の思ったとおりに動くべきである」という病的なコントロール欲求の存在でした。

しかし私が私自身のために生きており他人のために生きていないように、他の人たちだって皆自分自身のために生きているのであり、ありのパパのために生きているわけではありません。

ですから当然のことながら、ありのパパの思ったように人が動くわけはありません。
この失望すべき結果を前にして、私は次のように考えました。
「人々が自分の思い通りに動かないのは、私のコントロール能力に欠陥があるからだ。このような欠陥人間の自分は生きていないほうが良い。死んだほうがいい」と受け止めたのでした。

このような天才的な錯覚をしていたので「私がすべて悪いのです」と言うようなセリフが自然に出てきます。
これは謙遜さから出てきたのではなく、人々を思い通りに動かせなかった自分に問題があるという二重の誤った思い込みから出てきた戯言(たわごと)に過ぎませんでした。

12ステッププログラムの前提にあるのは「他人は変えられない。変えられるのは自分だけ」という理解です。
道理で棚卸し作業に抵抗を感じるわけです。
だって悪いのは全部私が思ったように動かない他人にあると思い込んでいるのですから、自分の側の問題のみをどうにかしようとする棚卸しに抵抗するわけです。

このカラクリに気づいたのは霊的に目覚めてから三年後でした。このスットコドッコイ!(笑)

        

4.心の平安(セレニティー)とは?

このカラクリに気づいてからは生きるのが一層楽になりました。
悟ったことは「他者は私を傷つけることができないし、不機嫌にさせることもできない。不機嫌になるのは結局のところ自分の一人芝居に過ぎない」ということです。

もちろん現実生活の中で問題が全くなくなるということはありえません。
しかし問題の只中(ただなか)にあっても心に平安を持って生きていくことが可能になります。
もう既になぜだか、その理由はお分かりですね。

それは自分の中にある感情のどれが暴走したのか、本能の中のどれが傷ついたのか、自分の側の落ち度の正確な本質は何か、利己的だったのか、不正直だったのか、恐れだったのか、それとも配慮の欠如にあったのかを知ることによって、私たちは恨みから出てくる怒りから自由でいることができるからです。

恨みとは事実を間違って解釈するから出てくるものなのです。
日々の棚卸しを行うことによって現実を正しく客観的に見ることができれば恨みは自然に消えていきます。
消えるどころか笑えてくるほどです。

このようにして私たちは依存症の再発のリスクを最小限に抑えることができます。
依存症者にとって恨み・恐れ・罪悪感・後悔などのマイナス感情は大大禁物です。
これらのマイナス感情があると私たちと神との障壁になり、シラフを維持するための神の力が遮断されます。
それで私たちの執行猶予は切れてしまうというわけです。
このようなことにならないように私たちは自分の心を見張っている必要があります。

「あなたの心を力の限り見張っていなさい」(旧約聖書・箴言4章23節)

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◎回復と平安を祈っています。

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