自分の意見が言えないと、それは次第に病的な支配欲求へと変質していきます。
そうならないためにはどうしたら良いのでしょうか?
二つの解決法をご紹介します。
1.「恐いんなら黙ってればいい」とはならない
なぜならそれは放っておくと病的な支配欲求へと変質するからです。
自分の意見を述べることができれば、ストレスはたまりません。
しかし自分の意見を押し込めたままだとストレスがたまり、そのストレスが圧となって自分の「こうしたい。こうすればよいのではないか?」という意見はいつのまにか「あなたはこうすべきである。あなたはこのように動くべきである」という病的な支配欲求に変質してしまいます。
2.ではどうすればよいか?
答えは「すべての人に敬意をもって接することに全力を尽くす」ことです。
人が恐いと感じるのは、人に傷つけられるのではないかと恐れるからです。
その恐れにがんじがらめになり、自分のことしか考えられなくなります。
そうではなく、自分の恐れはいったん脇に置いて、相手もあなたに傷つけられるかもしれないと恐れている可能性もあるのだから、相手に敬意をもって接することに全力を尽くすのです。
そのときだけ、あなたは人に対する恐れを感じなくて済みます。
なぜなら感情は一度に一つの感情しか感じることができないからです。
恐れを感じなければ不正直な対応に陥ることもなくなります。
3.自己意志を放棄して、神の意志を生きる
自己意志を主張しようとする時、恐れを感じます。
なぜなら自己意志を実行しようとする時は我力(がりき)で実行するしかないからです。
しかし我力では力不足なのは自分でも分かっているので恐れと不安を感じます。
だから自己意志を放棄して、神の意志を実践することです。
神の意志を実践しようとする時、同時にそれを実践する力も与えられます。
私たちの人生には四種類の歩みがあります。
a.自己意志を我力で生きる。(不毛)
b.自己意志を神の力で実現しようとする。(偽善)
c.神の意志を人間的な力で実現しようとする。(徒労)
d.神の意志を神の力で実践しようとする。(心の平安)
ありのパパが祈るのは「神さま、あなたの意志でない時は実行する力を与えないでください」ということです。
どうぞよく祈って、自分が主張しようとすることは自己意志か、それとも神の意志かを吟味なさることです。
そしてそれが神の意志であると確信できたら、信仰をもって一歩を踏み出すことです。
その時、神の意志を実行する力も同時に与えられます。
神の意志であるとはっきり分からない時は どうすべきでしょうか?
a.現場に出続ける。
b.責任を果たし続ける。
c.自分に出来ることをやり続ける。
このようにしながら、暫くして振り返ると、神がご自分の意志をある程度成し遂げてくださっているのを見ることになります。

◎回復と平安を祈っています。