霊的体験を持っていても霊的に目覚めていない場合もありえます。
そのような典型例がありのパパ自身でした。
ありのパパは自分のことを「宗教経験のデパート」と呼ぶほどに様々な霊的体験をしていましたが、霊的に目覚めていませんでした。
この問題を考えます。
目次
1.さまざまな霊的体験
ありのパパは18歳の時にキリスト教に入信して以来、様々な宗教経験を体験してきました。
入信した際には救いの確証を求めて祈り、三ヶ月後に「救いの確信」とか「御霊(みたま)の証(あかし)」とか言われる信仰体験が与えられました。
それ以降も、聖書に出てくる様々な宗教経験を自分のものとしていきました。
徹夜で祈り、断食して祈りました。
これらの宗教経験の特徴は、経験した何ヶ月間は霊的な高揚感を感じるのですが、徐々にその波は引いていくというものでした。
当時は「霊的な高揚感」だと思っていたのですが、今から振り返ってみると、それは「感情面における高揚感」でした。
感情なら波が引いていくのは当たり前のことです。
(引いていかなければ、それは精神疾患の可能性があります)
2.霊的体験の本質は霊的に目覚めること
①霊的体験の必要性
聖書は霊的体験の必要性を明確に語っています。
しかし同時にそこに至る道筋と、経験した後の歩みを重要視しています。
霊的体験の前後の歩みを無視するなら、それは聖書的キリスト教とは言えません。
その当時のありのパパにとって、このことは頭では理解できていても、人格的理解になっていたとは到底言えませんでした。
そういう訳で、感情的高揚感の波が引いていくと、誘惑が戻ってきて、その事実に失望しました。
②誘惑とは何か?
誘惑とは12ステッププログラムの言い方で言えば、強迫観念ということになります。
ありのパパは12ステップに出会ってはじめて「聖(きよ)い生活」を日々実践していくことが出来るようになりました。
12ステッププログラムの言い方で言えば「しらふ」ということになります。
12ステップは完全を目指すのではなく成長を目指すプログラムであり、治るのではなく回復を求めるプログラムです。
そうであるにもかかわらず、その12ステッププログラムに出会って初めて毎日のシラフを維持できるようになったというのは何とも皮肉なことだと言うしかありません。
③確信がない時に信じ、信じたことが実現して確信となる
a.怒りの爆発の防止(感情面でのシラフ)
b.アダルトチルドレンとしての回復(情緒面でのシラフ)
c.性的領域における聖さ(性的なシラフ)
この三つの領域におけるシラフを日々達成することが出来るようになって初めて感じるようになったことがあります。
それは「私に聖い生活を送らせてくださる神はおられる」という確信です。
聖書がそう言っているからだけでもなく、霊的体験をしたからだけではなく、聖い生活・シラフを維持させてくださっているから、神は存在すると確信することができるのです。
3.霊的に目覚めることが依存症からの唯一の解決策であるというメッセージ
「霊的に目覚めることこそ、依存症から回復するための解決策である」というメッセージを今苦しんでいる人々のところに運ぶ。
私たちが出来ることは「運ぶ」ところまでです。
そのメッセージに相手が食いつくかどうかは相手の問題であり、神にお任せするべき事柄です。
もし相手を助けてあげたいという欲求に突き動かされて行動に移すなら、それは病的な支配欲求、すなわち共依存症の発症ということになります。
私たちお互いは気をつけたいものです。
◎回復と平安を祈っています。