1.賜物論の一人歩きは大変危険
かつて一世を風靡(ふうび)した教会成長論は賜物のリストアップを勧めたものでした。
神学校の授業でもそのように教えられました。
それで、ありのパパは教会学校で教えていたのですが、「あなたの賜物は何か?」というテーマで授業をしたことがありました。
その結果何が起きたかというと、期待に反して生徒がみな傲慢になったように見えました。
コリント教会への手紙第一の12章を読むと、その理由が分ります。
パウロが賜物の話をするとき、必ず二つのことと絡めて話をしました。
一つは、賜物を与えてくださるのは神であること。
もう一つは、賜物が与えられた理由は、教会を建て上げるためであること。
この二つの理解が徹底されていれば、賜物を与えられた者が勘違いして思い上がることはありません。
決して賜物論だけを一人歩きさせないことです。
○聖霊の賜物のことを話すときは、必ず与え主と、与えられた目的が教会の建て上げのためであることを話すというのが、傲慢に陥らないための聖書的な予防策になります。
2.危険だから無視するというのはダメ
教会学校の生徒の表情に傲慢さが現れたのを発見したとき、ホーリネス運動が聖霊の賜物を強調せず、御霊の実を強調したのは正しかったのかとも考えました。
しかしそれは聖書に書いてあることに反します。
ホーリネス派をはじめとした福音派教会は、Ⅰコリント12章全体を実質的に無視しています。
無視という言葉がきつければ、棚上げという言葉がふさわしいかもしれません。
しかし、神の言葉である聖書を、自分の都合で「ここは受け入れる」「ここは受け入れない」ということは決してあってはならないことです。
3.五役者回復運動の間違い
五役者回復運動とは、使徒・預言者・伝道者・牧師・教師の失われた(と彼らが主張する)五役者を現代の教会に回復させようとする働きです。
アメリカに本部があり、日本でも宣教師を中心にして働きが広がっています。
聖霊派の超教派運動である「東京リバイバル聖会」にも、この流れの人々が混入しているようです。
確かに何でもありの日本らしい現象です。
しかし「ほぉ~、そりゃ結構なことで」とばかりも言ってはおれません。
聖霊の賜物は神が主権をもって与えくださるのであり、与えられた目的は教会の健全な建て上げのためであることを考えると、五役者回復運動の主張が決定的な誤りであることが分ります。
①神の主権的働きを無視している
賜物や役割は、神が必要に応じてお与えになるのですから、時代や地域によって神が教会に与えられる賜物と役割は異なります。
そうであるのに聖書の一カ所から、特定の教理を作り出すことは誤りです。
②カルト化の問題
賜物だけを強調するので、与えられたと自称する者は傲慢の罠にはまります。
結果、人間崇拝ゆえの教会のカルト化が起きます。
アメリカでも、日本でも、この運動に共感を示す教会にはカルト化の兆候がはっきりと現れています。
③過去に異端宣告を受けいている
この運動は大分以前にアメリカ・アッセンブリー教団によって、不健全な教えであると宣告されています。
それにもかかわらず、なぜこの運動に人気が集まるのでしょうか?
理由としては以下のことが考えられます。
a.教会拡張のためなら手段を選ばない傾向がある。(これが律法主義のもとです)
b.目に見える誰かに依存したいという傾向がある。(これが偶像崇拝のもとです)
c.目新しい教えにいつも浮き浮きしていたいという思いがある。(これが主観主義・熱狂主義のもとです)
◎教会の健全な成長のためにだけ、神から与えられた賜物を活用したいものです。
平安と祝福を祈っています。
ありのパパさんへ
「五役者の回復」、すご~い。記事の出たこの頃はまだ、バリバリ惑わされていました(泣)
そういうこともあったらいいね、と思っていましたが、使徒的権威を付与された、とされた方々が次から次へと性的不祥事と金銭問題で、バッタバッタと倒れていきました…。
「実」によって見分けることが大切なのでしょうか?
ところで、ありのパパさんに質問です。ヘビーなのでスルーでも、全然構いません。
不祥事の内容にもよるでしょうが、不祥事を起こしてしまった教職の方は、どのような回復過程を通るのが望ましいのでしょうか?
一般的には、
1、教職を辞任する
2、説教と牧会活動を自粛する
3、神と人に仕える姿勢を行動で示すために(悔い改めの実を結ぶために)、十分な反省期間を設ける。
という物のようですが、この中でいらないものはあるでしょうか?または加えた方が良いことはあるでしょうか?
そうだ!!反省期間中に、12ステップに取り組まなければ(おまえが言うな!?←自分ツッコミ)
よろしくお願い申し上げます。
こんばんは、マッキーさん。
コメントをありがとうございます。
そうなんですよね。「こんなのがあったらいいな」という漠然とした期待を良いように利用されたというか。
救われたと言っても、頭の中は依然として多神教的な考え方のままであったのがバックドアになりましたね。
問題対処の道は本人と責任役員会との関係で決まってきますね。
「問題を起こした者は辞職すべき」という主張の弱さは、いさぎよく辞職するような方が果たして問題を起こすだろうかというところにあります。
いさぎよくないからこそ、問題を起こしたのではないかということです。
またコメントしてください。お待ちしています。
ありのパパさんへ
おはようございます。
質問に答えて頂き、有難う御座います。
そうですね。責任役員は全員イエスマンになってしまうと、もはや牧師の暴走に歯止めを掛ける手段がありません…。
犯行現場が海外だと、管轄外で日本で告訴することも出来ません…。ズル賢いというか…。
与えられた賜物と召命は変わることはないと信じていますが、資質の問題なのでしょうか…。
いくら教えることが上手くても、学校の先生が生徒に手を出したらアウトですし、いくら正義感が強くて捜査能力が高くても、刑事が酒気帯び運転をしたらアウトですものね…。
説教を継続しているということは、本人が悔い改めていない、ということなのかも知れませんね…。