共依存症者だけでなく、他の依存症者や依存症者でない人々にとっても、真の問題は病的な支配欲求を本質とする共依存ではないでしょうか?
他者に対して、自分自身に対して、そして神にさえ自分の思いどりに動けと思っているのが私たちなのです。
目次
1.自己認識と人間関係のトラブルを関連付ける
多くの共依存症者が自分自身のことを共依存症であると自覚してはいるのですが、今直面しているトラブルが自分の中にある病的な支配欲求が原因になっていることに気づいていません。
気づいていないので、依然として振り回されたままです。
これではいくら自助グループに参加して「共依存症からよくなりたい○○です」と何回自己紹介しようとも、回復することはありません。
このように書いているありのパパ自体が「あの人、どうにかならないかな?」などと、まるで相手に問題があるかのように考えて当然であると疑っていないのです。
しかし、このような文章を書いていてはじめて「あっ、他人の問題ではない。問題の核心は自分自身の中にある病的な支配欲求だ」と気づくのです。
2.すべての人間関係の問題は自分にかかっている
自分にかかっているとは「自分の力でどうにでもなる」という意味ではもちろんありません。
そうではなく、相手に問題の大半があったとしても、人間関係をコントロールすることは可能だということです。
ある人が「あの人に問題がある。あの人が悪い」と言っているので、「じゃ、その人との人間関係を切り捨てれば?」と聞くと、プンプンしながら「そんなこと出来るわけないじゃない!」と答えます。
皆さんは、この会話のどこに問題があるとお思いでしょうか?
第一の問題は人間関係を切り捨てることができないと思い込んでいるところにあります。
人間関係は複層的な階層を持っているものです。
どういうことかと言えば、同じようにニコニコと笑って話していても、職場の同僚と家族とは違った人間関係であるということです。
「そんなこと、分かってる!」と仰るのですが、実は分かっていないのです。
共依存症者にとっての人間関係は一種類だけです。
そうです。支配・被支配の関係です。
問題解決のカギは支配・非支配の病的な支配関係を脱ぎ捨てて、新しい対等な関係を築くことにあります。
3.知らず知らずのうちに相手に依存するのが共依存症者
第二の問題は、なぜ自分はその人間関係を「切り捨てることができない」あるいは「切り捨てたくない」と考えているのかというところにあります。
答えは相手に依存しているからです。
「私は依存なんかしてません。第一、喧嘩ばかりしています」と仰る方もおられます。
しかし、そのような方は依存は依存でも敵対的依存関係というものがあるのをご存じないのです。
友好的であろうと敵対的であろうと、問題ではありません。
問題の核心は、その関係が依存的か、あるいは対等のものかというところにあります。
4.すべての共依存関係にある人間関係を切り捨てる
ある人は「いや〜、そんなことしたら大変だ。生きていけなくなってしまう」と言われるかもしれません。
でもね、大丈夫です。
重荷を背負って生きていたときよりも、はるかにらくらくと生きていくことが出来るようになります。
第一、共依存関係は両者の関係である場合もありますが、それよりもはるかに多いのが、相手はそんなに思っていないのに、自分だけが勝手に大騒ぎしているという場合がほとんどです。
それにもかかわらず「あの人が、あの人が!」と騒ぎ立てるのは、ある面では一人芝居のようなものです。
5.共依存は依存症です
共依存の人間関係を全部切り捨てると、当座はすっきりもしますが、すぐに禁断症状が襲ってきます。
ここで二つに道が別れます。
一つは「禁断症状があるということは依存症なんだ。あぁそうか、私は依存症なんだ」という自己理解を持ち、依存症からの回復を目指してコツコツと一歩々々歩んでいきます。
もう一つは共依存症者であるということに無自覚なままであり、ほとぼりが覚めるとまた同じムジナを探し当てます。
よく「私は本当に男運が悪い」とか嘆いている方がおられますが、実はそうではありません。
ご自分が共依存する相手を探し当てているのに過ぎません。
(もちろんお相手も依存・搾取する相手を探しているのですが)
同じ失敗を何度も繰り返した後で、人生がどうにもならなくなったことを認めて底付きを経験するというのはよくあるケースです。
しかし底付きを体験した後で自助グループに通いながら、性懲(しょうこ)りもなく共依存症の再発を繰り返すなら、回復するチャンスは失われてしまうでしょう。
私たちは聡明な人でありたいものです。
◎回復と平安を祈っています。