共依存症者とは相手を支配しようとしているにもかかわらず、気がつくと相手に振り回されている人々のことを指します。
この人々の精神構造はACの精神構造ととても似ています。
そこで両者がともに陥りがちな点を明らかにし、それへの対処策を考えます。
1.他者は自分の思い通りには動かない
人は自分のために生きているのであり、私のために生きているわけではありません。
そうであるのに「なぜ、あなたは私の期待したとおりに動かないのか?」と心の中で叫んでも、それは一人芝居に過ぎません。
これが共依存症の根本構造であり、このことに気づくことが回復への第一歩となります。
このカラクリに絡め取られていることに気づくなら、真に無力を認めることができます。
それまでは無力を認めていると言っても言葉だけのものであり、決して12ステップの1が教えているような無力を認めるということにはなりません。
2.自分の要求を口に出せない時、コントロール欲求は病的になる
口にして当然の要求を口に出せない場合、考えられる原因は2つあります。
一つは、自分の中に「人への恐れ」があって、他者に面と向かって自分の要求を口にすることができない場合です。
この場合、口に出せないことによって内面の欲求不満はコントロール不能なほどにたまります。
その溜まりに溜まった欲求不満が病的な支配欲求として対人関係に反映されるという負の連鎖が起きがちです。
もう一つは、行き過ぎた責任感や誤った倫理観のせいで「こんなことを言うべきではない」と考えてしまい、自分の本音を口に出すことができない場合です。
この場合もやはり自分の要求を口に出せないということは同じですから、ますますストレスが溜まってしまいます。
自分欲求を口にすることが出来ない時、その欲求をすっぱり捨ててしまえるかというと、人間はそのようにはできていません。
どうなるかというと「私は自分の願いを口にしないけど、あなたはそれを察してね」というとんでもない非常識な考えを当然であると考えるような認知の歪みを持つようになります。
「なぜ、あなたは私の思ったとおりに期待したとおりに動かないのか?」という考えが極めて利己的であるのに気づくことが大切です。
それまではず〜っと病んだ人間関係に苦しむことになります。
3.ACや共依存症者は霊的に目覚めて、それで良しとはならない
他の依存症を持っているACや共依存症者は、その依存症からの回復をまず目指します。
徹底して12ステッププログラムに取り組んで霊的に目覚めると、その依存症からは鮮やかに回復することができます。
しかし、ふとACとしての自分の実態を鑑(かんが)みると、そこには以前とちっとも変わっていない自分自身を発見して愕然(がくぜん)とします。
それであわててACの問題リストと呼ばれるものの統合作業に取り組み始めます。
アルコール依存症なら酒を飲まないという一点が自分に決心できるただ一つのことです。
しかし買い物依存症であるなら、買い物をしないというわけにはいきません。
それで買い物依存症の人たちは、買い物依存症の境界線を「借金をしてでも買い物に走る」というところに置きます。
それは具体的にクレジットカードを持たないという行動に現れます。
ではACや共依存症者はどのような態度を取ればよいのでしょうか?
4.ACは問題リストに対して無力を認めるとともに統合作業を行う
ありのパパの実践を例としてあげます。
①「私たちは人が恐いので、人々から孤立するようになった」(問題リスト1)
ありのパパは本来的に一人でいるのが好きです。
家族以外の者にはたとえそれが親友であっても長時間一緒にいると苦痛や疲れを感じます。
それで孤独好きな部分は変えられないものとして受け入れ、孤立する部分については変えていく勇気を神に求めます。
「すべての人に敬意をもって接することに全力を尽くす生き方」を実践しようとすれば、孤立している暇はありません。
あの方にも、この方にも、敬意をもって接しようとすれば自然と孤立することからは免(まぬが)れるものです。
ありのパパはこれをステップの6と7を日々実践する中で気づくことができました。
人が怖いから人から孤立するという行動パターンをそのままにしておくことは共依存症者にとって自殺行為です。
なぜなら「この人だけは大丈夫」などという根拠のない思い込みをもってしまう原因になるからです。
心を閉ざしているから「この人だけは大丈夫」な存在を必要とするのです。
心を開いていれば「この人だけは大丈夫」な存在を必要としません。
なぜなら、すべての人が大丈夫な存在であることを知っているからです。
②「私たちは刺激に嗜癖するようになっていた」(問題リスト8)
ACが刺激に嗜癖する原因は「人が恐い」という思いを直視しないためというケースもあります。
また感情面での安全が傷つくと恐れの感情が暴走し、刺激に嗜癖することによって不安を感じないようにするというケースもあります。
「人が恐い」という性格上の欠点が取り除かれたとしても、刺激に嗜癖するという問題は残ります。
なぜならこれは単に性格上の特徴ではなく、依存症だからです。
脳の報酬系に「恐れを感じたら刺激に嗜癖しちゃえば良いんだよ」と強力に命じる依存症回路ができてしまうと、それは死ぬまでなくなることはありません。
これが「AC・共依存症は治らない。しかし回復は可能。だから回復に専心しよう」ということです。
共依存症者にとっては人間関係が嗜癖の対象です。
そして依存する人の言動が共依存症者の心を刺激します。
気がつくと、その刺激に嗜癖しています。
ですから共依存症者にとっても不安と恐れから免れて日常生活を送ることが大切なことになります。
それは不安と恐れがなければ刺激に嗜癖する必要もなくなるからです。
5.刺激に嗜癖しない努力ではなく、刺激を近づけない努力
刺激に嗜癖するということに対してACは無力です。
ですから、嗜癖する刺激の一切を放棄します。
ありのパパはテレビに嗜癖したので何十年も前にテレビを捨ててしまうことによって問題の解決をはかりました。
三十年後の現在、ネットフリックスやフールーなどのドラマや映画の見放題サービスが始まりました。
ありのパパは内心で「三十年も経っているから、もしかしたら治っているかもしれない」と考え、仮契約を結びました。
しかし結果は朝の六時までドラマを見続けるというものでした。
ドラマを見ながら「やっぱり自分は治っていなかった 」という事実を砂を噛むように噛みしめていました。
それで見放題サービスを解約してしまいました。
AC・共依存症者の「刺激に嗜癖する」という問題に対する対応策は、刺激に嗜癖しないように努力することではなく、嗜癖する恐れのある刺激を近づけないことです。
実際的な対処方法はこの方法しか存在しません。

◎回復と平安を祈っています。