私たちは自分では気づきませんが、三重の嗜癖(しへき)に囲まれて生きています。
さて、三重の嗜癖とは一体なんでしょうか?
本当のシラフを得るために大切なことを考えます。
1.第一の嗜癖は性格上の欠点
「性格上の欠点が嗜癖であるとはどういうことか?」と思われるかもしれません。
心が健康な人であれば、誰かとトラブルが起きた時、その人のところに行って「なぜ、あなたはこのようなことをしたのか?」と問いただすでしょう。
ありのパパの性格上の欠点は「恐れが動機となって不正直な対応をする」というものですが、人との間にトラブルが起きると「もともとあの人はそういう人だったんだ」とか「人間なんてそういうものさ」と分かったようなことを言い、納得したつもりになり、自分を欺くという対応をしていました。
このような、ありのパパの生き方は利己的極まりない生き方ですが、しかし一方では楽な生き方でもあるのです。
なぜなら心が健康な人はわざわざ出向いていって苦手な人とも向き合い、苦痛を感じても話し合いをします。
これに対して恐れに基づいた生き方は、自分の心の中ですべて決着をつけますから、汗をかくことが全然ありません。
考えようによっては、こんなラクチンな生き方はありません。
このようなわけで性格上の欠点に嗜癖して生きてきたということが言えるわけです。
2.第二の嗜癖は依存症
性格上の欠点が、恨み&怒り、恐れ、罪悪感、後悔などのマイナス感情を生み出します。
これらのマイナス感情は神と私たちの間の障壁になるばかりでなく、人々との人格的交流を不可能にさせます。
すなわち、これらの人は他者に頼ったり、自己開示できない人になってしまうのです。
これを指して「依存症は信頼できない病である」という医師もおられます。
ある人はアルコールに嗜癖します。
ある人は、ありのパパのように怒りを爆発させることに嗜癖します。
これらの問題行動はみな、生きづらさを抱える人々がなんとか今日一日を生き延びるための命綱となっている面もあるのです。
このようなわけで依存症は分かりやすい嗜癖の対象であるということが言えます。
3.第三の嗜癖は病的なコントロール欲求
自分の中に病的なコントロール欲求があるのに気づくのは、通常は依存症を克服し、その次に性格上の欠点を取り除いてもらうステップを経たあとです。
本人は「やれやれ。依存症も短所の問題も解決したぞ!」とひと安心したのも束(つか)の間(ま)、自分の心の中に他人をコントロールしようとするドス黒い思いがムクムクと湧き上がってくるのを感じて戸惑いを覚えます。
しばらくの間は「手放して、あとは神にお任せ」などのスローガンを使って何とかしようとしますが、結局手放せない自分を発見することになります。
それもそのはずです。
手放せるのなら、無力ではありえません。
手放せないから、無力を認める必要があるのです。
こうして依存症に対して無力を認め、性格上の欠点を取り除いていただくようにお願いしたあとで、他者への病的なコントロール欲求に対しても無力を認めるようになります。
この三つのものから解放される時、はじめて私たちは本当のシラフを体験します。
「心が健康な人って、はじめからこんな素晴らしい心の状態を味わっていたの?私は今まで何をしていたんだろう」と感じるほどです。
私たちにはそのような生き方が可能です。
◎回復と平安を祈っています。