犠牲を払う覚悟を決心した全ての人に神の奇跡は訪れる!

アブラハムとサラ夫妻に神の奇跡が訪れた時、彼らは戸惑いながらも神の意志に従いました。
実は神の奇跡は誰にでも訪れるのです。
ただ、その時に神の奇跡を受け入れる覚悟と従順が必要とされます。
さて、私たちにその覚悟はあるでしょうか?

        

1.アブラハム夫妻に起きた神の奇蹟物語

創世記18章10節には「来年の春、わたしは必ずここへ戻ってきます。その時、奥さんのサラには、男の子が生まれています」と書かれてあります。

この時、アブラハムは99歳、サラは90歳です。
人間的には夫婦の営みはおろか、妊娠・出産は不可能に思われました。
それが急激に、アブラハム夫婦の肉体に大変化が起こり始めました。

「アビメレク王はサラを自分のそばめにしようとした」(創世記20:02)ほどに、この時のサラは大変美しかったようです。
なぜ90歳のおばあちゃんが、王様が自分のそばめにしたいと思うほどに美しかったのでしょうか?
それはサラが急激に若返って行ったからです。
それ以外には合理的な理由が考えられません。
そして御告げのあった一年後には、実際に子供が産まれています。

        

2.神のなさることが破天荒すぎて理解するのが難しい時がある

ありのパパは歳をとって良かったと思っている人間ですから、もう一度若者に戻るのは勘弁してほしいというのが本心です。
ですから多分ありのパパがアブラハムだったら、ここで怒りが爆発していると思います。
いわく「神様、あなたがあなたのご計画を実現するのはあなたの勝手。しかし私にはわたしの人生がある。心静かに人生を送らせてほしい」と今まで神様がどんなにか良くしてくださったことも都合よく忘れて、神さまに噛みついたと思います。
本当に不信仰で、どうしようもないわがまま者であると、自分でも思います。

アブラハム夫妻はどうだったかというと、二人とも「笑った」のです。
大阪人の乗りで「また~、ご冗談ばっかり!」という感じです。
お調子者夫婦でも、神様は用いられるのだと感心しました(笑)。

        

3.神の奇蹟を体験するには犠牲と覚悟が必要

アブラハム夫妻は神のご計画実現のために、年取ったり、若返ったり、自然法則を全く無視したような神の業(わざ)に翻弄(ほんろう)されているようにも見えます。

ある人はこの文章をお読みになって「あら~、若返ることが出来るんだったら、なんだってしちゃうわ」という方もおられるかもしれません。
しかしそのために神に献げなければならないリストを予め知っていても、そのように言えるでしょうか?

若返ったゆえに権力者に目をつけられ、お妾(めかけ)さんになるか、殺される危険の中を生きるかの選択を迫られ、子供が産まれてからは、神様にその子どもを献げるように命じられます。
言っときますが、決して「献児式」をやるようにという命令ではありません(笑)。
おどろおどろしい言い方ですが「生贄(いけにえ)にささげよ」と言われたのです。
(注:これは神がアブラハムの心を見ることが目的でした。真の神は人間を生贄にするようなことはなさいません)

        

4.あなたにも訪れる神の時

アブラハムとサラに起きたことは私たちにも起きます。
但し、それを許容するだけの信仰と献身があればですが。
いいえ、立派なものは必要ありません。
つまずきながらも「わかりました、神様。あなたの言う通りにします」と申し上げ続ける意志さえあるなら、アブラハムとサラのように神のご計画実現のために用いられることが出来ます。

「気持ちはあるんだけどな~」と言う人よ。
それは気持ちがあるとは申しません。
それは「口先だけ」と言うのです。
気持ちがあるとは、実際にそうなったとき「みこころが私になりますように」と申し上げる決心を今この時に行うということです。

神の計画実現のため、あなたの人生を差し出してくれないかという神様の申し出は、あなたの人生に前ぶれなく突然訪れます。
ですから予めどのように申し上げておくか決めておかないと、その時うまく行かないのです。
決心なされるのは、今この時です。
そうなさるなら、人生が音を立てて変わっていくようなことはないにしても、小川のせせらぎのように命の川の水があなたのご家庭に、職場に、学校に流れ出るようになります。

ともにこのような祝福ある人生を生きようではありませんか。

◎平安と祝福を祈っています。

        

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