共依存から回復するために何をしたらいいですか?

「共依存症からどのように回復していったら良いのか?具体的に教えてほしい」というご質問にお答えします。
この通りにやれば必ず回復することができます。

以前、棚卸しやカウンセリングをしていただいた「くま」です。
いつもブログを楽しみに読んでいます。

今回の共依存の定義↓で、やっぱり自分は共依存であると確認しました。

『他者を自分の思い通りに動かそうとするのと、他者の思うままに自分が動こうとするのは、一見正反対のように見えます。しかし、これはどちらも共依存症であることに変わりはないのです』

私は、前者の「人に思い通りに動いてほしい」と思うのは、だいぶなくなりました。
でも、後者の「他者の思うように自分が動こうとする」というのはドンピシャです。

職場でも、働き者と言われています。
実際、認められようと、また「クリスチャンとして証(あかし)になるような働き方をしなきゃ」と思い、頑張っています。

自分の中で「この時までにこれをしなきゃ」と思い込み、余裕や臨機応変さがありません。
他者とコミュニケーションを良く取れず、よい仕事ができていないと思います。

でも、相手が思うように動くってのは、親切にも繋がると思うのですが。

私は出来ない自分を見られるのが嫌でどんどん孤立していっています。
仕事のミスも増えています。だから疲れます。

これらのことは日常生活の中で無意識に動いていることです。

棚卸しをしようと何度か思いましたが、ステップ4の表に書こうと思っても具体的にあてはまることがパッと思い浮かびません。

まず何をすればよいですか?

こんにちは、くまさん。
ご相談を下さり、ありがとうございます。

「人が願っているように自分が動いてしまう」というのは確かに共依存の問題です。
「まず何をすればよいですか?」とのご質問ですので、具体的に「これをやろう!」というものを書いていきますね。

        

1.まず、無力を認める

はじめに理解しなければならないのは、この問題(共依存症)は『治らない』ということです。(ただし回復は可能)

くまさんの文面から感じるのは「良くなろう。よくなろう」とする思いです。
はっきり申し上げますが、「よくなりません」。

一生、共依存を背負って生きていくことになります。
これが治るのを諦(あきら)めるということです。

もちろん「治りたい」という思いはなくなるものではありません。
そして、これが私たちの回復を危うくします。
なぜなら回復は「治らない」という理解の基礎の上にあるからです。
私たちが「治りたい」「この問題なんか、なかったことにしたい」という願いに思いを支配させることは、回復の基礎を掘り起こしているようなものです。

そうすると回復という土台の上に立てられた家は倒壊してしまいます。

アルコールや薬物の依存症者が「私は治らない。生きている間はこのままである」と認めるときに回復させる神の力が働き始めるのと同じように、共依存症者も「私は治らない。一生このままである」と認めるときに、回復させてくださる神の力を体験するようになります。

①「治らない」理由

それは脳の報酬系という部位に快楽を求めることを強力に命じる回路(これを依存症回路といいます)がいったんできてしまうと、その回路は生きている間はなくなることはないと言われているからです。

共依存という生き方はそれをする人々に充分な快楽を与えます。
共依存の生き方をしている限り、恐れから脱却することもないし、勇気をだして正直な対応をしなくてもすみます。
これは恐れと共存する生き方であり、気楽な生き方を私たちに提供します。
しかしご存知のように、この生き方は必ず人生を行き詰まらせるのです。

②同じことを繰り返してしまう原因

依存症には強迫観念と渇望現象の二つがあります。

a.渇望現象とは何か?

渇望現象とはいったんやり始めると自分の意志の力では止めることができないほど強力なアレルギーです。

アレルギーとは、他の人にとっては何でもないのに、自分には異常な反応をもたらしてしまうことを言います。

普通の人は卵を食べても何ともありませんが、アレルギーを持っている人は卵を食べると蕁麻疹などが出ます。

それと同じように普通の人は酒を飲んでも「もうこれでいい」という限界点が訪れます。
しかしアルコールにアレルギーを持っている人はブラックアウトするまで飲み続けます。
それは一杯目を飲むと、二杯目を飲みたいとの強力な飲酒欲求に襲われるためであり、それはブラックアウトするまで続きます。

共依存症者には「人を自分の思ったように動かしてやりたい」欲求と「人が思うように自分は動かなければならない」という二つの欲求があります。

この欲求は心が健康な人は持っていないものです。
持っているように見えても、そこには限度があります。
しかし共依存症者のコントロール欲求は底なし沼です。

b.強迫観念とは何か?

強迫観念とは「わかっちゃいるけど止められない」というものです。
アルコール依存症者は酒を飲みさえしなければ普通の人と同じ生活を送ることができます。
しかしどういうわけか飲んでしまうのです。

あるアルコール依存症者は「ミルクにブランデーを一滴垂らすぐらいならいいだろう」と考え、再飲酒します。
そしてそれは当然のことながら一滴では終わらず、ブラックアウトするまで飲み続けるアルコール依存症のスリップとなったのです。

アルコール依存症者にとっての「もう飲まない!」という決意が意味のないものどころか、そう思っているうちは回復できないのと同じように、共依存症者にとっても「もう共依存しない!」と思っているうちは回復は期待できません。

「私は渇望現象にも、強迫観念に対しても無力である」と認めることがどうしても必要です。

        

2.次に、神の力を受け取る

①治ることではなく回復を求める

ずっと以前から神は私たちに力を与えてくださっています。
しかし私たちが求めているのが「治る」ことだと、神の力は私たちの脇をすり抜けて駄々漏れしてしまうだけです。

なぜなら神が与えてくださる力は「治るための力」ではなく「回復するための力」だからです。

そういうわけで、私たちが治ることではなく回復することを求めるとき、神の力を受け取ることが可能になります。

②委ねるとは従うこと

神の力を受け取るために必要な二番目のことは自分の意志と生き方を神に委ねることです。

神に委ねるとは自分は何もしないで神に期待することではありません。
委ねるとは従うことです。
従うという言葉も「私は従います!」と宣言することではありません。
そうではなく、従うとは心の棚卸しを日々なすこと、新しい行動パターンで生きていく決心と実践、埋め合わせの人生を生きる決心と実践を行うことです。

この三つを行っていれば、神に従っているということが言えます。

③棚卸しのこと

くまさんは、この問題をステップ4の表を作るやり方でやろうとしておられます。
しかし、ありのパパだったら、そうしないでステップ10の日々の棚卸表のやり方でやります。
そのほうが効果が上がると思いますので、そちらをおすすめします。

ステップ4の棚卸しはステップの5で「もう一人の人」に表を見てもらうことが前提になっていますが、ステップ10の日々の棚卸しは自分一人でやるのが前提です。

日常の問題が起きるたびに、気軽に出来るのが日々の棚卸しです。

        

3.日々の実践はどうすればいいか?

無力を認め、神に従う決心をした後はどうしたらいいでしょうか?
もうやることは何もないのでしょうか?
いいえ、そんなことはありません。

①統合作業を行う

アダルトチルドレンの問題リストの中から最も緊急になんとかしないといけないと思われるものを一つ選び、六ヶ月掛けて統合作業を行います。

やり方は当ブログに掲載されているものを参考にしてください。

②自分が自分自身の愛ある親になる

くまさんのご相談の文面から感じることは、くまさんは焦(あせ)っているのではないかということです。
なぜ焦っているかというと、それは自己一致していないからです。
自己一致とは、自分が自分自身の味方になることです。
最大・最強の味方は「自分」です。
自分が「自分自身」の味方にならなくて、一体誰が味方になってくれるというのでしょうか?

「素早く動かないといけない」と焦(あせ)るので、自分自身と会話する気持ちの余裕がないのではないでしょうか?

しかしこれは練習によって、自分自身と会話することを身に付けることが可能です。

③自分の中だけで決めない

くまさんは「人が願っているのではないかと思うことを先回りしてやってしまう」のでしょうか?
そうするとトラブルは起きやすくなると思います。
しつこいぐらいすり合わせ・確認をしないと問題は起きやすくなります。

「今日一日の自分の行動の中で、相手に確認せずに先回りしてやってしまったことはないか?」を一日の終わりや、日々の棚卸しと共に統合作業をします。

そして「次に同じケースに遭遇したとき、私はどのように振る舞えばいいか?」を考え、予め対策を立てておきます。

たとえば上司が次から次に用事を言いつけるとき、以前なら「はい、わかりました」としか答えることができなかったのが、これからは「AをやったらBの案件ができなくなりますが、どういたしましょうか?」と情報提供を行います。
そうしたら(まともな上司なら)「あっ、そうか。そんなら仕方ない。Bをやってくれればいい。Aは他の人に頼むから」ということになります。

◎回復と平安を祈っています。

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