福音派に問題を感じるが、カトリックの教えにも問題を感じる……

以前はプロテスタント教会に通っていたが、事情があってカトリック教会に通うようになった方からのご相談です。
自分だったら、どうするだろうかと考えながらお読みいただければ幸いです。

ご相談内容: 

私は今、カトリック教会で主日(礼拝)を守っています。

(元の教会に行かなくなった理由)

私は3人の牧師のもとで信仰を守ってきましたが、いずれの牧師からも軽蔑され、裁かれていました。

今は死んだ妻も、牧師のもとで15年間信仰を守っていましたが、告別式の時の説教で「妻の印象が薄くて」と言われ、失望もしました。

また「教会の中心は献金である」と役員から言われ、「私はパンの耳をかじってまで十一献金をしてきた。教会は私たち信徒が支えなければ」と言われて、その教会には行かなくなりました。

(カトリック教会に行くようになった理由)

そんなとき、主から「私はあなたを見捨てず、見放さない」との聖書の言葉が与えられました。

他の教会を探しましたが、いずれのプロテスタント教会、特に福音派は説教の結論を十字架とイエスの愛で終わらせ、まずいカップ麺を食べたような虚しさに陥りました。

私は「主と私の関係を確かなもの」として信仰生活を送り、信仰の実を結ぶべきと思っています。

しかし多くのプロテスタント教会にはやはり大同小異で失望しましたので、「内村鑑三の無教会派しかないかな」と思いましたが、一人では方向がそれ、キリストから反れてしまう危険があります。

そのため最後の選択肢としてカトリック教会しか残っていませんでした。

(カトリック教会に感じる問題)

カトリックのマリア崇敬、聖人崇敬、煉獄の教理は聖書にない教えである以上、受け入れることができません。
しかし、信仰を守っていくのに他に適当な教会はありません。

私は今、65才です。
あと十年たったら、隣町の教会には行けなくなるかもしれません。
私は主と結んだ契約を守りたいのです。
主に従いたいのです。
どうしたらいいのでしょうか?

こんにちは、タカシさん。
ご相談を下さり、ありがとうございます。

ご相談内容をお伺いして、色々な意味で日本の教会の典型的な問題が浮き彫りにされているように感じました。

一つ一つ考えてまいりましょう。

        

1.キリスト者の心理面のこと

①霊的成長とはどういうことか?

それは霊的に成長すればするほど、至らない人を受け入れることが出来るようになるということです。

これが真の人格的成長であり、相手が自分の定めた基準に達しないからと言って、相手をさばくのはイエスが忌み嫌われた律法主義にほかなりません。

②自尊感情のこと

タカシさんのご相談を読んで感じたことを率直に申し上げますと「15年以上も、軽蔑されたり、裁かれたりする場所(教会)にとどまり続けたのですか!?」ということでした。

この記事をお読みになるキリスト教徒でない方々も「教会って随分ひどいところだ。それに15年以上そんなところにとどまり続けた、この人にはどんな理由があったのだろう?」とお感じになられると思います。

ですから、この問題を避けて通ることはできません。
なぜなら、このブログは生きづらさからの回復に役立つ情報を発信するとともに、「聖書的キリスト教って良いもんですよ!」ということを伝えるのを目的にもしているからです。

どんな場合でも「自分自身を大切にする」ということを優先しなければなりません。
たとえば夫に肉体的・精神的・言語的暴力を受けている場合は、即離婚を考える必要があるのと同じように、教会内で精神的・言語的な暴力を受けている場合は即脱会を考慮しなければなりません。

③問題の切り分け方

聡明な読者は「至らない人を受け入れるケースと、受け入れてはならないケースはどのように判断するのか?」とお思いになられたでしょう。

基準は自分自身に被害があるかどうかです。
たとえば配慮のできない無作法な人に対してイラッとしたとします。
この場合、イラッとしただけであり、被害は別段あなたにありません。

しかし相手の言動によって、自分自身が傷ついた場合は相手を受け入れてはなりません。
相手から離れるという行動を選択しなければなりません。
これが極端に苦手な人を共依存症と言います。

        

2.聖書から見て疑義のある教理への対応

確かにマリア崇敬、聖人崇敬、煉獄の教理は聖書にないものです。
しかしこれらの教理が受け入れられないなら、カトリック教会に行かないという選択もあったのに、タカシさんはご自分の意志でカトリック教会に通うという選択をされました。

それにもかかわらず、タカシさんはカトリック教会にも問題を感じると言われます。
タカシさんの言われることをカトリックの信徒さんが聞いたら、どのように思われるでしょうか?
「嫌だったら、来なければいいんじゃない?」と思われるでしょう。(ありのパパだったら、そう思います)

そこにはタカシさんの個人的事情があったことを理解します。
だけどタカシさんの個人的事情はあくまでタカシさんの個人的事情に過ぎません。
それをカトリック教会に忖度(そんたく)しろと言っても、それは無理というものです。

考えられる対応は3つあります。

一つは、タカシさんご自身がカトリック教会に通うのを止めることです。

二つ目は、タカシさんがカトリック教会内部に働きかけて、これらの非聖書的教理の撤廃のために運動することてす。

三つめは、これらの問題を当面は解決できないものと考え、不本意ながら黙認することです。

        

3.自律した信仰者を目指す

タカシさんはご相談を「どうしたらいいのでしょうか?」という言葉で結ばれました。

大変失礼ながら、ありのパパがタカシさんに問い返したいことは「タカシさんご自身は、どうしたら良いとお考えでしょうか?」ということです。

「考えても答えが見つからないから相談しているんじゃないか!」とおっしゃるかもしれません。

しかし、神の御前で祈りぬいてください。考え抜いてください。
そうしたら、答えは必ず神から与えられます。

すぐには与えられない場合もあります。
その場合は、神の応答を求めつつ、当面の間は自分で妥当と思われる行動を選択します。

◎平安と祝福を祈っています。

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