福音派にもカトリックにも問題を感じる私はどうしたら良いのか?

(2021/01/09記事更新)この記事は以前はプロテスタント教会に通っていたが、事情があってカトリック教会に通うようになった方からのご相談にお答えしたものです。

1.ご相談内容

私は今、カトリック教会で主日(礼拝)を守っています。

(元の教会に行かなくなった理由)

私は3人の牧師のもとで信仰を守ってきましたが、いずれの牧師からも軽蔑され、裁かれていました。

今は亡き妻も牧師のもとで15年間信仰を守っていましたが、告別式の時の説教で「妻の印象が薄くて」と言われ、失望もしました。

また「教会の中心は献金である」と役員から言われ、「私はパンの耳をかじってまで十一献金をしてきた。教会は私たち信徒が支えなければ」と言われて、その教会には行かなくなりました。

(カトリック教会に行くようになった理由)

そんなとき、主から「私はあなたを見捨てず、見放さない」との聖書の言葉が与えられました。

他の教会を探しましたが、いずれのプロテスタント教会、特に福音派は説教の結論を十字架とイエスの愛で終わらせ、まずいカップ麺を食べたような虚しさに陥りました。

私は「主と私の関係を確かなもの」として信仰生活を送り、信仰の実を結ぶべきと思っています。

しかし多くのプロテスタント教会は大同小異であり、失望しましたので「内村鑑三の無教会派しかないかな」とも思いましたが、一人では方向がそれ、キリストから反れてしまう危険があります。

そのため最後の選択肢としてはカトリック教会しか残っていませんでした。

(カトリック教会に感じる問題)

カトリックのマリア崇敬、聖人崇敬、煉獄の教理は聖書にない教えである以上、受け入れることができません。
しかし信仰を守っていくのに他に適当な教会はありません。

私は今、65才です。
あと十年たったら隣町の教会には行けなくなるかもしれません。
私は主と結んだ契約を守りたいのです。
主に従いたいのです。
どうしたらいいのでしょうか?

2.相談へのお答え

こんにちは、タカシさん。
ご相談を下さり、ありがとうございます。

ご相談内容をお伺いして、色々な意味で日本の教会の典型的な問題が浮き彫りにされているように感じました。

①キリスト者の心理面のこと

キリスト者が霊的に成長している実は至らない人を受け入れることが出来るようになるということです。

これが真の人格的成長であり、相手が自分の定めた基準に達しないからと言って、相手をさばくのはイエスが忌み嫌われた律法主義にほかなりません。

タカシさんのご相談を読んで感じたことを率直に申し上げますと「15年以上も、軽蔑されたり、裁かれたりする場所(教会)にとどまり続けたのですか!?」ということです。

この記事をお読みになるキリスト教徒でない方々も「教会って随分ひどいところだ。それに15年以上もそんなところにとどまり続けた、この人にはどんな理由があったのだろう?」とお感じになると思います。

ですからこの問題を避けて通ることはできません。
なぜならこのブログは生きづらさからの回復に役立つ情報を発信するとともに、「聖書的キリスト教とはどのようなものか」を伝えることを目的にしているからです。

どんな場合でも「自分自身を大切にする」ということを優先しなければなりません。
たとえば夫に肉体的・精神的・言語的暴力を受けている場合は離婚を考える必要があるのと同じように、教会内で精神的・言語的な暴力を受けている場合は脱会を考慮しなければなりません。

②問題の切り分け方

聡明な読者は「至らない人を受け入れるケースと、受け入れてはならないケースはどのように判断するのか?」とお思いになられたでしょう。

基準は自分自身に被害があるかどうかです。
たとえば配慮のできない無作法な人に対してイラッとしたとします。
この場合、イラッとしただけであり、被害は別段ありません。

しかし相手の言動によって自分自身が傷ついた場合は相手を受け入れてはなりません。
相手から離れるという行動を選択しなければなりません。
これができない人を共依存症と言います。

③聖書から見て疑義のある教理への対応

確かにマリア崇敬、聖人崇敬、煉獄の教理は聖書にないものです。
しかしこれらの教理が受け入れられないなら、カトリック教会に行かないという選択もあったのに、タカシさんはご自分の意志でカトリック教会に通うという選択をされました。

それにもかかわらずタカシさんはカトリック教会に問題を感じると言われます。
タカシさんの言われることをカトリックの信徒さんが聞いたら、どのように思われるでしょうか?
「嫌だったら来なければいいんじゃない?」と思われるでしょう。(ありのパパだったら、そう思います)

そこにはタカシさんの個人的事情があったことを理解します。
だけどタカシさんの個人的事情はあくまでタカシさんの個人的事情でしかありません。
それをカトリック教会に忖度(そんたく)しろと言っても、それは無理というものです。

考えられる対応は3つあります。

一つは、タカシさんご自身がカトリック教会に通うのを止めることです。

二つ目は、タカシさんがカトリック教会内部に働きかけて、これらの非聖書的教理の撤廃のために運動することてす。

三つめは、これらの問題を当面は解決できないものと考え、不本意ながら黙認することです。

3.自律した信仰者を目指す

タカシさんはご相談を「どうしたらいいのでしょうか?」という言葉で結ばれました。
ありのパパがタカシさんに問い返したいことは「タカシさんご自身はどうしたら良いとお考えでしょうか?」ということです。

「考えても答えが見つからないから相談しているんじゃないか!」とおっしゃるかもしれません。

しかし神の御前で祈りぬいてください。考え抜いてください。
そうしたら答えは必ず神から与えられます。

すぐには与えられない場合もあります。
その場合は神の応答を求めつつ、当面の間は自分で妥当と思われる行動を選択します。

◎回復と平安と祝福を祈っています。

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コメント

  1. ひばり より:

    ありのパパ様

    いつも、ブログを読むたびに勉強させられています。
    この、ブログを読ませていただいた時に、「共依存」についてすこし引っかかりました。
    自分自身も共依存ではないかと思いました。

    「特に傷つけた相手から離れないといけない」

    という文を見て私もそうなのかもと自問するところです。

    ちなみに、教会と信徒というのは共依存のような関係でもあると思うのですが、どう思われますか?

    健全な教会ならばそういった関係ではないのでしょうか?

    ありのパパ様にもいつも主の平安がありますように
    ひばり

  2. ありのパパ より:

    おはようございます、ひばりさん。
    初めてのコメントをありがとうございます。

    いつもお読みいただいているとのこと、ありがとうございます。

    さて、ご質問の件ですが、ひばりさんご自身がもうすでに答えておられます。
    「質問に答える記事を一つ書けるぞ」と思いましたのに残念です(笑)。

    信徒と牧師の関係は共依存ではなく、共労の関係ですね。
    そして仰るとおり、健全な教会なら共依存の関係はありません。
    (信仰に入ったばかりのクリスチャンが牧師に共依存的になるのはよくあることですが、その場合でもそのような状態を速やかに脱することが期待されています)
    共依存の教会版がカルト化教会ということになります。

    またコメントしてください。お待ちしています。

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