自分と違う人を裁かない。そうでないと人を愛せないまま。

1.一つの依存症しか受け入れないという方針の変更

ごく初期のアメリカAAでは「アルコール依存症以外の問題がある者を受け入れない」という規則を作ったグループがあったようです。
しかし彼らはそのような規則を守っていると、多くのアルコール依存症を助けることができず死に追いやってしまうことに気づき、一切の規則を廃止しました。

代わりに「私たちのグループのメンバーになる資格は、アルコール依存症から回復したいという願いだけである」という原則を作りました。
今日では、この原則がAAのみならず12ステッププログラムを採用するすべての自助グループの原則となりました。

この変更は大変に先見の明があるものでした。
なぜなら現在のアメリカではほとんどのアルコール依存症者が薬物の依存症者でもあるからです。
もし「アルコール以外の依存症を持っている人はダメ」という規則を守っていたら、アメリカAAのミーティング会場は空っぽになっていたことでしょう(笑)。

2.もう一つの暗黙の了解とは?

AAはもう一つの原則を採用しました。
それは「複数の依存を持っていても、AAのミーティングではアルコール依存についての分かち合いをする」という暗黙の了解です。

この暗黙の了解は他の依存症グループでも採用されました。
たとえばACの自助グループのミーティングでは、アルコール依存症者であっても主にアダルトチルドレンとしての問題と回復に焦点を当てて分かち合いをします。

感情と情緒の問題をもつ人々の自助グループであるEAでは、他の依存症を持っていたとしても、自分の感情と情緒の問題に焦点を当てて分かち合いをします。

○複数の依存症者を受け入れるという原則と、依存症別に構成されている自助グループのミーティングではその依存症についての分かち合いをするという暗黙の了解によって、現在の自助グループの運営の形が出来上がりました。

3.自分と違う者を受け入れないという心理的障壁

アルコール依存症者のミーティングに買い物依存の人が来て、買い物についての苦しみを延々と語ったとしたら、他のメンバーは白けてしまい、時間が経つのを悶え苦しみながら待つことになるでしょう(笑)。

これなどはわかりやすい例ですが、では違いが心理的な問題から出ている場合はどうでしょうか?
たとえばACのミーティングに発達障害の方が来られて、これまでの理解されなかった苦しみを語ったとしたら、他のメンバーはどう感じ、受け止めるでしょうか?

「共感はするけど、なんかちがう」と感じるかもしれません。
理解されない苦しみという面では同じであっても、問題の出どころがちがうと感じるのです。

パーソナリティ障害の方がミーティングに来られた場合はいかがでしょうか?
分かち合いをお伺いしていて、失礼ながら「それ、あんたが悪いやん」と受け止めざるを得ないときもあるでしょう。

これは「そんなこともあるよね」という一般論を語っているのではなく、ありのパパが実際に感じた感情です。

正当化するつもりも、弁解するつもりもありませんが、大切なことは「では、どうしたらよいか?」ということです。
問題対処の秘訣はいつでも「そうせざるを得ない原因は何なのか?」を明らかにして、さらに「解決策は何か?」を考えることです。

4.クロス・アディクションの問題への対処

クロス・アディクション(複数の依存症をもっていること)の方は多く存在します。(ありのパパもそうです)

依存症治療に従事する医師によると、一つの依存症から回復すると、その患者さんが新しい別の嗜癖に依存するようになるのは珍しくないそうです。

これはアルコールや薬物の依存症から一応の回復を果たした人が、今度はパチンコ・競馬・スマホのゲーム(ギャンブル依存症)や、食べ物(摂食障害)や買い物(買物依存症)・セックス(性依存症)にハマるということです。

こうなってしまう原因は二つ考えられます。

一つは生き方が変わっていないということです。
これは漠然としたことではなく、ステップの4と5で明らかになった性格上の欠点と古い行動パターンを使わない決心と新しい行動パターンを使っていく決心と実践です。

この面での実践が不十分だと、回復したとは言っても実は「回復しただけ」みたいな感じになってしまいます。

では、もう一つの理由とは何でしょうか?

5.他のメンバーへの病的なコントロール欲求

誰にもその人なりの基準というものがあります。
道徳的・倫理的な基準というものは自分自身も支配され、他人をも支配しようとするものです。

立ち止まって考えなければならないことは、この「他者をコントロールしようとする病的な欲求」こそが自分の人生が思い通りに生きていけなくなった究極的な原因ではないのかということです。

回復のために自助グループに参加しているにもかかわらず、他のメンバーの有り様に余計な口出しをするというのは共依存症という病気が再燃していることにほかなりません。

この『他者への病的なコントロール欲求』を手放さない限り回復は一歩も前に進まないのですが、「これだけは手放すことは出来ません!」と力(りき)む方が多いのは困ったことです(笑)。

私たちは他者への病的なコントール欲求に対して無力を認め、これを手放したいものです。
そうしたらスイスイと回復の軌道を進むことが可能になります。

◎回復と平安を祈っています。

コメント

  1. タカシ より:

    初めまして。
    私は福音派の教会に籍を置く年金生活者です。
    今はカトリック教会で主日を守っています。
    「プロテスタントのキリストス者がなぜカトリックに?」と疑問に思われるかもしれませんが、理由はご容赦ください。

    カトリック教会で受け入れがたいのは、まず「煉獄」の教理です。
    これはサンピエトロ寺院の建築資金を捻出するために作り出した妙案だと解釈しております。

    もう一つは「聖母マリア」です。
    これは(崇敬か、崇拝か境目が分かりかねますが)信仰の一つであることはわかりました、

    先輩教皇が打ち出したものを後輩教皇が取り消すことができないというルール(のようなもの)が、間違った教理を作り出し、またそれを修正できない理由ではないかと思います。

    確かにカトリックにはプロテスタントにはないものがあることは分かります。
    ただ、近代において決まった祈祷文などは改めたほうが良いのではないか、と思われる処も感じました。

    教えて頂きたいのは「カトリックの『ミサの方法』や『煉獄』『聖母マリア』などは再度、プロテスタントと意見交換するべきではないか」というものです。

    「この記事にこのコメントはふさわしくない」と思われますでしょうが、他にふさわしい記事を見つけだすことができませんでしたので、ここに投稿させていただきました。
    プロテスタント教会に様々な理由でいられない信徒には、カトリック教会に行くことしか選択肢がないのです。
    どうか、ご意見をお願いします。

    • ありのパパ より:

      おはようございます、タカシさん。
      初めてのコメントをありがとうございます。

      さて、仰るようにこの記事にこのコメントはふさわしくありません(笑)。
      ふさわしい記事が見つからない場合は、メニューの[相談ご希望の方へ]から投稿してください。
      メニューはパソコンの場合は画面の上部に、スマホの場合は画面の一番下にあります。
      よろしくお願いします。

      本来なら承認しませんが、コメントの内容とそこから伝わっくるお人柄が好ましく感じられましたので、掲載させていただくことにしました。
      「教えていただきたい]とのことですが、その場合は「私はこう考えているが、あなたはどう考えるか?」を対話の要諦としております。(これもメニューの[コメントしてくださる方へ]に明記しています)
      どうぞ、まずご自分のお考えを書いてくださいますようにお願いします。
      ここで言う、ご自分の考えとは「なぜプロテスタントと相談しなければならないと考えるのか?」についてです。
      よろしくお願いします。

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