「共依存症12ステップへのガイド」(メロディ・ビーティ)いつも他人を変えてやろうと躍起になっているあなたへ

共依存症12ステップガイド

今日は共依存症者向けの12ステップ本をご紹介いたします。
共依存症問題の第一人者メロディー・ビーティの書籍です。
メロディー・ビーティさんはご自分も共依存症者であり、薬物からの回復者でもあります。

        

ステップ1

他人へのコントロール欲求をそのままにしていると人生が思い通りに行かなくなります。
他人をコントロール(支配)しようとする欲求に対して無力を認めるところから始まるのが、共依存症者のための12ステッププログラムです。

        

ステップ2

このステップは私たちを狂気から正気へと戻してくれると言っています。
それで私たちは、自分を超えた大きな力を信じるようになりました。
人を変えようとすることを止め、自分を変えることにフォーカスを当てます。

結局のところ他人を変えてやろうとしたこと自体が狂気の表れであり、そしてその結果として私たちは自分の人生が思い通りに生きていけなくなったことを認めざるを得ないほどに追い込まれました。

その原因のすべては他者をコントロールしようとしたことにあります。
それにもかかわらず自分自身のコントロールがうまくいかないことは不問に付し、棚に上げていました。

ステップの1で、そのような自分を直視し、そこから抜け出す力がないことを私たちは認めました。
まさに地獄でしたが、それは絶望のままで終わることがありませんでした。
夜が明ける前が一番暗いと言いますが、神を信じるようになる以前は私たちの心と人生は真っ暗でした。
しかし神を信じるようになった時、神が私たちの人生に太陽としてのぼり、光と暖かさで満たしてくださいました。

        

ステップ3

このステップは人の世話を焼くことを止め、自分自身の世話をすることを始めるステップです。
神を演じることを止め、自分の役だけを生き始めます
そうすることで人生は激変します。

多くの人々が人生をなんとかしようとして神の役割を果たそうともがきました。
しかし、そうしようとすればするほど人生は思い通りに行かなくなりました。
まさしく私たちは共依存症者として生きていたのです。

自分なりに理解した神に、自分の意志と生き方をゆだねる決心をする時、自分の人生も、この世界もすべては神が支配しておられ、神のご計画に従って調和をもって進んでいっていることに気づくようになります。
この気づきを通して、私たちは心に平安を得、人間関係が平和のうちに保たれるようになります。

一時的に思わしくないような状況が現れたとしても、一日一日を神にゆだねます。
そうすることによって私たちはどんなときでも心に安心感を持つことが出来るようになります。
そして後から振り返ってみると、神のご計画が見えてくるのです。
「あぁ、なるほど。ここではこうなる必要があったのだ!」と合点がいきます。

しかし弱い存在である私たちはこのような体験を何回したとしても、神のご計画が見えなくなるときもあります。
そのようなときも慌てず、失望せず、「神さま、私は傷付きやすい土の器(つちのうつわ)に過ぎません。あなたがすべてを導いておられると頭では分かっていても心が付いていかないのです。どうぞ、このような私をかわいそうに思ってください」と祈りましょう。
そうしたら必ず、すべての人の考えを超えた神の平安があなたの心を守ってくれます。

○ステップ1で自分の無力を認め、ステップの2で神が私を健康な心に戻してくれると信じ、ステップ3では神と共に生きることを決心する。
このステップを通して、実際に神の力が自分の心と人生に流れ込むのを体験するようになる。

        

ステップ4,5

ステップの4と5は私たちが共依存症から回復するためのカギとなるステップです。
私たちはこのステップで「なにが私たちの性格上の欠点なのか」を知ることが出来るようになります。
それを知ろうと意識的に努力することが大切です。

私たちは人を恐れ、それゆえに人々との間に壁を作りました。
その壁は不正直という行動になって現れました。
人々との間に壁をつくる生き方を続けていると人生は行き詰まらざるを得ません。
しかし私たちは人生が行き詰まった真の原因を知らなかったので、行き詰まれば行き詰まるほど、ますます不正直な行動に拍車をかけました。

このような身勝手な一人芝居をしていると気づかせてくれるが、ステップの4と5なのです。

        

ステップ6,7

ステップの4と5が人生が行き詰まった真の原因を私たちに教えてくれるステップだとしたら、ステップの6と7は私たちの人生が全く新しいものに造り変えられてしまうステップです。

ステップの6と7は行動するステップです。
私たちが古い行動パターンを使わず、新しい行動パターンを使えば使うほど人生は全く新しいものへと変わっていきます。

いざ「自分の短所を取り除いてくださいと、謙虚に神に求め」ると、私たちは不思議な思いに駆られがちです。
それは自分が空っぽになってしまうのではないかという自己憐憫です。
私たちは今までの人生で性格上の欠点やさまざまな嗜癖(しへき)を楽しんできました。
実際は楽しんだのではなく、それがないと苦しくて生きていけないので苦しみを感じないための痛み止めとして用いてきたのではありますが。

しかしこれらのものは使えば使うほど、私たちの人生を行き詰まらせました。
そして「自分の人生が思い通りに生きていけなくなったことを認め」たのでした。

不正直な対応や、怒鳴ったり、自己憐憫に浸ったりは私たちと仲の良い友達でした。
これらの友達と永遠にお別れするのだと思うと、人間的には寂しさを感じて当然です。
しかし彼らと縁を切らない限り、私たちの人生は新しくなりようがありません。
だから自分が空っぽになりそうな恐怖感に打ち勝ちましょう。
内心に聞こえてくる「これも、あれも捨てて、聖人にでもなるつもりか?」という声に耳を貸してはなりません。

しばらくの間、新しい生き方に全力を投入していると、自分の人生が全く新しくなっているのを気づく時がやってきます。
これはもちろん治ったのではなく回復したに過ぎないのですが。
だからいつでもバックスライド(スリップ)可能だし、これから変わっていくべきものが多くあるということも事実です。

ステップの6と7は12ステップの核心的部分です。
物質依存や行為依存をもたないアダルトチルドレンや共依存症者にとってはなおさらです。
アルコール依存症者にとっては12ステップを実践したことで飲酒が止まるという祝福があります。
同様にギャンブル依存症者にとっては賭け事をしないですむという祝福があります。

しかし、明白な依存症をもたないアダルトチルドレンや共依存症者にとっては「止めるべきもの」がありません。
だからこそ神に性格上の欠点を取り除いてもらうステップの6と7まで行かなければ12ステップに取り組んだ甲斐がないというものです。

性格上の欠点が取り除かれてはじめて、人生が変わるということを体験するのですし、12ステッププログラムが世俗的なプログラムではなく霊的なプログラムであるという意味を理解するのです。

        

ステップ8,9

メロディ・ピーティの本のこの箇所はとてもわかりにくいです。
個人的には、独自性があると言っても限度があると考えます。

ステップの4と5でやるべきこと(自分を傷つけた人々の棚卸し)を8・9でやろうとしているようにも見えます。
それはまちがいだと(ありのパパは)思います。

8・9でやるべきことは自分が傷つけた人々に対する埋め合わせです。
そしてその表は4で作った棚卸表がそのまま埋め合わせ表となります。
これはすなわち「自分が相手に傷つけられた」とばかり思っていたことが実は「自分が相手を傷つけていた」という認識に転換することです。
この「相手」の中には「自分自身」が含まれるということに注意することが大切です。
そのような転換が起きないステップの5であってはならないと、ありのパパは考えています。

        

ステップ10

このステップは私たちを回復の軌道に乗せ続けてくれるステップです。
私たちは自分の過ちと共に、自分の良いところ、うまく出来ていることにもフォーカスを当てる必要があります。
これが共依存症者にとって必要なことなのです。

共依存症者にとっては、自分の間違い探しなどは得意中の得意であるということが出来ます。
しかし、これが共依存の病的な現れの一つなのです。

私たちは自分がうまく出来ていることにも焦点を当て、自分をほめてあげることが大切です。
私たちはこのようにして回復の軌道に乗り続けることが出来るのです。
私たちは成長できます。私たちには成長することが可能なのです。
かつては望むことも、願うことも出来なかったことが、自分の人生において実現するのを見るようになります。
このステップは、そのような人生を歩み続けるためのガイドライン・道先案内人となってくれるのです。

        

ステップ11

12ステップの世界では、祈りは人が神に向かって話すことであり、黙想は神が人に語りかけてくださるものであると理解されています。
この本にも同様の理解に基づいてステップ11について記述されています。

しかし、ありのパパはこの考えとは違った理解を持っています。
ありのパパの理解を以下に申し上げます。
競走馬が走るときにゴールだけが見えるように視野を狭める目隠しのようなものをします。
同様に私たちが祈るときは、神だけが見えるように意識を狭めます。
そうしないと神の声が聞こえないからです。
そこから、平安や導きがやってきます。

では黙想とは何かというと、黙想は心の目隠しを外した状態で静かに自らを振り返るときです。
祈るときは神しか見えないようにしていますが、黙想のときは特定の状況におかれている自分が全部見えています。
そしてさまざまな角度から自分自身を検討します。
「思い違いしていることはないか?」「決断が早すぎたり、遅すぎるということはないか?」「どのような対処の仕方が神の意志にかなったことなのか?」などなど様々なことを心がおもむくままにつらつらと考えます。
そして今日一日分の決断しなければならない事柄を決断します。
これがありのパパが黙想の時間にやっていることです。

        

ステップ12

これらのステップを経た結果、私たちは霊的に目覚めました。
霊的目覚めの本質とは何でしょうか?
それは【回復するのに充分な人格の変化】であると言われます。(ビッグブック)

では回復するのに充分な人格の変化とは一体何を意味しているのでしょうか?
それは物の見方が180度変わることです。
ステップに取り組む前は「自分がこうなったのは自分以外の人のせいだ」と思い込んでいたのが、「そうではない。自分がこうなってしまったのは自分が原因だった」という理解に一変することです。
(その際に、自分自身を責める思いがあるなら物の見方が一変したとは言えません。なぜなら自分自身を責める思いは責任転嫁の思考パターンから来ているからです)

「埋め合わせしてもらいたいのは、こっちだよ全く!」と怒り狂っていたのが、しおらしく「これからの人生は埋め合わせの人生を生きていきます」と本気で言うようになります。

それまでは「人を変えるにはどうしたらよいか?」に必死になっていたのが、「幸せは自分持ち」とばかりに「私は古い行動パターンを捨て、新しい行動パターンに従って生きていきます」と輝いた笑顔で告白するようになります。

これが霊的目覚めの本質です。
いかなる霊的経験をしようとも、その霊的体験に「物の見方が一変する」という要素が含まれていないなら、そのような体験を何度しようとも私たちの人生が真に変革されることは決してありません。

        

共依存症者が12ステッププログラムに取り組むときに留意したいこと

共依存症者が12ステップに取り組むのは難しいことです。
アルコール依存症ならば飲みすぎた自分に問題があるのは明らかです。
しかし、養育者や配偶者や子どもにひどい仕打ちをされて、それが原因でミーティングに通うようになった場合、自分は被害者にほかなりません。
そうすると「なんで一番の被害者である私が、自分の悪い部分を知るために棚卸しをしなければならないのか。バカにするのもいい加減にしろ!」ということになりがちです。

しかし、人生のどこかで「いや、そうではない。問題はこの私である」という理解が腑に落ちる時がやってきます。
その時が共依存症者にとっての回復が始まるときにほかなりません。

◎回復と平安と祝福を祈っています。

AC Skypeミーティングのお誘い
アダルトチルドレンと共依存症者のためのSkypeミーティングが始まりました。時間は毎週水曜日の20時〜21時…
        

新しい記事を見逃したくない方はメール登録をどうぞ!

登録ボタンを押すと届くメールの【フォローを確認】をタップして登録完了です。

タイトルとURLをコピーしました