すべての者に見捨てられた時でさえ、神はあなたを見捨てていない!

全ての人に見捨てられたと感じ絶望するときでさえ、神はあなたを見捨てていません。
その事実に目が開かれることが大事です。
ハガイとイシュマエルの親子を通して、取るに足りないと思う自分を神がどれほど愛しておられるかを見ていきます。

        

1.我力(がきり)の信仰か、それとも恵みによる信仰か?

創世記16章13節にはアブラハムの子供をはらんだゆえに、いい気になってしまい、正妻のサラの反撃にあい、命からがら逃げ出したハガイのことが書かれています。

この箇所にはともすれば孤独に悩む現代人にとって大切なメッセージが含まれています。
「私はひとりぼっち。助けてくれると期待したアブラハムは腰抜けだった。誰も私を助けてくれない。もう死ぬほかはない」と思っていたハガイに、神が現れてくださり、やさしく、しかも安心できる言葉を力強く語ってくださいました。

その時にハガイが語ったのが「エル・ロイ (ご覧になる神)」という言葉です。
神が自分のことを見ていてくださるのを知ることは、なんと幸いなことでしょうか。
信仰の醍醐味は「私が神を信じる」というところにはなく、「神が私をご覧になっておられる」というところにあります。

「私が神を信じる」ことは信仰のスタートですが、いつまでたっても「私が神を信じる」のままでは、その信仰は律法主義となってしまいかねません。
なぜなら信じているのはわたしの所作であり、わたしの努力であり、わたしの力です。
しかし自分の力では信じきれませんから、いつかは裏表のある信仰者になってしまいます。
私たちは、神が私をご覧になっておられるゆえに信仰生活を続けることができるのです。

        

2.13年間、神の顕現のなかった理由

アブラハムは神の約束を信じ、その信仰のゆえに義人として認められました。
しかしどのような理由か分かりませんが、神の約束によらず自分の考えによって、イシュマエルという子供を持ちました。

イシュマエルを産んでから13年間、神の顕現はアブラハムにありませんでした。
多くの聖書注解者はアブラハムの人間的弱さ・不従順のゆえに、神との交わりが断たれたのだとします。
聖書注解者に限らず、クリスチャンには正しい人が多いのだと感じます。
正しい者の側に立って、罪を犯した人を裁きます。

しかし、ありのパパの理解はそのようなものではありません。
ありのパパの考える、神の顕現のなかった理由は以下のとおりです。

もし神の啓示があれば、イシュマエルの立場は危ういものになったでしょう。
そうでなくても、日常的にサラからの圧迫があったと思われます。
自分の父であるアブラハムは根っからの愛妻家でしたから(恐妻家?)、父親の助けは期待できません。

この空白の13年間はイシュマエルが元服(げんぷく)するまでの期間であったのです。
イシュマエルが元服を迎える13歳まで、次のステップに向かう神の啓示はなかったのです。

        

3.神はイシュマエルをも愛したもう

家庭内平和を最優先課題とする父も、サラの目を盗んで時々はイシュマエルと遊んだりもしたのではないでしょうか。
そして13歳のとき、父アブラハムと一緒に割礼を受けるという晴々しい体験をもって子供時代が完了したのです。
お父さんと一緒に割礼を受けるイシュマエルはどんなに誇らしく感じ、うれしかったことでしょう。
心の中で「僕、今日のことを一生忘れない!」と叫んでいたに違いないと想像します。
なんと幸いな子供時代であったことでしょうか。

神はイシュマエルを大切に思ってくださり、愛してくださり、13年間の猶予期間を与えてくださいました。
なんと感謝なことであり、愉快であり、痛快なことではありませんか。

神はすべてのものを支配し、ご自身のご計画通り、少しの間違いもなく事を進めるだけの方ではないのです。
一人の子供を大切に思ってくださり、両手を広げて敵から子供を守る母のような愛情を持った方であるのです。

あなたの子供時代がどんなに悲しく辛いものであったとしても、イシュマエルを見守ってくださった神があなたをも守っていてくださったのです。
あなたがそれを感じていなくても、あなたがそのことに気づいていなかったとしてもです。

ありのパパはこの文章を書きながら、自分の子供時代にも同じように神様が見ていてくださったんだということに思いが及びました。
神さま、ありがとう!

◎平安と祝福を祈っています。

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