この記事では牧師になって教会を建て上げようとする志(こころざし)をもった方からのご相談にお答えしています。
1.ご相談内容
初めまして ありのパパ様
ブログ拝見させて頂いてます。
自分はクリスチャンです。
いつか牧会したいと思っています。
ですが、教会内で奉仕に携わるうちに、外よりも教会で傷ついている人が多いと思いました。
日本の教会に関する記事などを見ても、カルト化・鬱の問題、そういった問題が散見されます。
これは自分が教会を形成する上でも真剣に捉えないといけない問題だと思いました。
教会内で信徒さんが傷つく原因として、どういったことが一番問題になってくるのでしょうか?
こんにちは、ロロさん。
ご相談を下さり、ありがとうございます。
早速、ありのパパが考える「ここが一番、信徒が傷つく」というところをお答えしますね。
2.相談へのお答え
①律法主義とは「ここまで出来たら救われる」という合格ラインを目指して努力するもの
「こうなれ!」というモデルがあり、そのモデルを目指して努力することが期待されているとき、できているように思えているときはいいですが、出来ない自分にぶち当たる時、人は傷つきます。
信仰に入って何年かは「やれば出来る!」という万能感に満ち溢れて信仰生活に励みます。
しかし何年か経って、自分の歩みを振り返ってみて、ちっとも変わっていない自分の姿に直面する時、失望するのではないでしょうか?
○「あるべきクリスチャン像」というものがあり、そのようなものになることが暗黙のうちに期待されている時、人は傷つくようです。
②「そうできない」という事実が忘れられている
「人は自分の努力によっては誰一人として救いに到達できない」というのが、律法を守ることによって救いに到達しようとした人々が出した結論でした。
律法が神によって与えられたのは、そのような理解を私たちが持つためでもありました。
そもそもキリスト教信仰は、「そう出来ない」自分を認めるところからスタートするものです。
個人としても、教会としても、この原点が忘れられていると傷つきは必至です。
○自分の努力で救われることが出来ないから信仰に入ったにもかかわらず、入信した後はどういうわけか我力・自力で頑張ろうとする誤りに陥ると、いつか必ず失望することになります。
③救われることと、罪に打ち勝つことが別のものだと思われている
真の無力とは「自分はどうやっても罪に打ち勝つことができない」という体験からもたらされるものです。
聖い心をもち、聖い生活と人生を送ろうと真剣に努力した人だけが「私は無力である」という体験的理解を持つことができます。
無力を認めるというきわめて生命的に重要なことを、キリスト者個人としても、教会としても、等閑に付していると言えないでしょうか?
無力を認めていない人は、本当の意味で信仰を持つことは出来ないし、信仰生活を始めることも出来ません。
たとえ出来たように見えても、それは文字通り『振り』をしているのにすぎません。
無力を認めないまま信仰に入ると、必ず失望する。なぜなら信仰は無力を認めた人がもつものだから。
◎回復と平安と祝福を祈っています。