自分自身と他者をゆるすとはどういうことか?(はじめての聖書)

[今日の聖書箇所] (マルコ2章1節〜12節)
イエスがメッセージを語っている時、病人を寝かせたままで天井に穴を開けて吊り下ろすという前代未聞(ぜんだいみもん)の事件が起きました。
イエスはこの病人に向かって「あなたの罪はゆるされた」と言われました。
それを聞いた律法学者は心の中で「神以外に罪をゆるすことはできない]と屁理屈を言ったのでした。
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1.赦しを宣言するイエス

イエスは罪の赦しを宣言することと病を癒やすことを同時並行させながら、教えを展開します。

私たちは誰でも「『あなたは赦されました』と宣言するだけなら簡単だ」と考えるものではないでしょうか?
人々がそう考えるのをご存知であられたイエス様は今度は実際に癒やしを行って見せます。

そうすると今度は人々は「この人は、我々が難しいと思っていた癒やしをいともたやすく行って見せた。ということはこの人が先に行った『赦しの宣言』は本物ということになる」と考えるようになりました。

イエスは「人々の罪を赦す権威」を持っていました。
これは天国に入ることができることを含む全的な赦しです。
ところで私たちにも人を赦す権威が与えられていることを、皆さんはご存知でしょうか?

        

2.私たちに与えられた赦す権威とは?

赦された者は赦す権威を持っています。
そのための条件が2つあります。
一つは自分自身を赦していること。
もうひとつは人を憐れむ心を持っていることです。

①自分自身を赦しているとは、どういうことか?

無力を認める前の私たちは人をさばくだけでなく、自分自身をさばく者でした。
というよりは自分自身をさばいているから、その投影として他者をさばくようになったというほうが正しいでしょう。

神によって与えられた赦しを自分自身に対して日毎に宣言する必要があります。
かつての決定的な赦しの体験だけでは不十分です。

赦しを毎日の祈りと黙想の時間に、自分自身に適用します。
そうすると、その一日だけは赦された者として生きていくことができます。
しかし翌日になると、赦しは空っぽになっています。
それで一日を始める前に、再び自分自身に赦しを宣言します。

回復が十分でないように見えたり、スリップしてしまっている自分をさばかず、「まぁ、そんなこともあるさ」とありのままを認め、そのままで良いと自分自身を受け入れます。

②他者を赦すとは、どういうことか?

無力を認めた今は自分自身を赦していますから、他者をも赦すようになりました。

パリサイ派の人々は罪を赦す権威を持っていませんでした。
なぜでしょうか?
それは人々に合格点を示し、「ここまで到達できたら、あなたがたは救われる」とし、そう出来ない人々をさばいていたからです。

他者をさばく人は、人を赦す権威を行使することは出来ません。
なぜなら、人をさばくことと、人を赦すことは共存できないからです。

私たちが他者(隣人あるいは仲間)に対してできることは3つあります。
それは、ありのままを受け入れること、回復の軌道に乗れるように助けること、そして祝福を祈ることです。

        

3.ありのままを人生の基礎、回復を土台にするとき、人生は祝福される

わかったようなことを言う人がいるものです。
そのような人の決まり文句は「いつまでも『ありのまま』などと甘えたことを言っていてはならない」というものです。

これぐらい間違った教えはありません。
ありのままに自分自身を受け入れることは、人生の基礎に当たります。
基礎の上に土台があり、土台の上に建物をのせるのです。
「建物が完成したから、もう基礎は必要ない。基礎を取り除けよう」と言う人はどこにもいません。

建物が大きければ大きいほど、基礎が大切になるのです。

回復も同様です。
「もう回復したから、共同体に参加する必要はない」と言うことのできる人は一人もいません。
なぜなら、依存症は治らない病気であり、回復したのに過ぎないからです。
そして回復は『霊的目覚め』と『共同体から受ける助け』によって支えられます。
ですから共同体から離れることは、片翼飛行をしているようなものであり、不安定極まりない人生とならざるを得ません。

◎自分自身を赦し、他者をも赦す営みを日毎に繰り返す者でありたいものです。
平安と祝福を祈っています。

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