12ステッププログラムに対して批判的な人々は、プログラムの背景にキリスト教の存在があることを問題にします。
これは厳密に論理的に言えば、的外れです。
しかし歴史的視点から見れば、案外と共感できることではあります。
今日は12ステップを未信者の立場からではなく、キリスト教の立場から見てみます。
(この記事を書いているありのパパは福音主義キリスト者でありつつ、12ステップに取り組む者です。)
1.12ステップがありのパパにしてくれたこと
ありのパパは18歳のときに神を信じて以来、神とともに生きてきました。
しかし、どうしたら神の力を自分の心と生活の改変のために用いることができるのかを知りませんでした。(知っているつもりではありましたが)
そのため40年間、荒野をさまようことになりました。
12ステッププログラムに出会って初めて、どうしたら神の力を自分の心と生活の改変のために用いることができるのかを知ることができました。
ここから、ありのパパの人生は本当に変わりました。
しかしだからといって、12ステッププログラムが全く新規の教えであると言いたいわけではないのです。
そうではなく、現代キリスト教が少しずつ間違って理解していたことを修正したのに過ぎません。
2.罪から解放されても罪人でなくなるわけではない
ウェスレアン・アルミニアンの神学に立つ教会は「罪の性質の除去」という教えを信じています。
これはアダム以来引き継いできた罪の性質(原罪)を取り除かれるという教えです。
論理的に考えれば、罪の性質が取り除かれるなら、その人は罪人ではありえません。
もちろん、暴走しないための神学的歯止めは掛かっています。
それは「キリスト者の完全」という教えです。
全くきよめられた状態は、どのような完全であるかという質問に対して、(ウェスレアン・アルミニアンの立場にたつ教会をつくった)ジョン・ウェスレーは「それは神としての完全でなはい。また人間的完全でもなく、天使的完全でもない。キリスト者としての完全である」と教えました。
このような教えは神学としては完成されていますが、この教えを人間の心理に当てはめるとき、即座に不具合が置きます。
それは罪が取り除かれたなら、自分が不注意でない限り、罪を犯すことはなくなるはずです。
しかしキリスト者はこの神学が教えることとは大幅に異なる現実に直面します。
この御業は聖霊のバプテスマによってもたらされますが、当初の興奮状態が覚めると現実が戻ってきます。
そして、罪の誘惑に再び直面することになります。
そして罪に勝ったり、負けたりの現実を味わいます。
(罪の性質が取り除かれるという)この教えは聖書の正しい理解とされていますから、悪いのは自分であるということになります。
それで際限なく自分を責めることが始まります。
3.聖書はなんと教えているか?
ありのパパの理解では聖書はこのようなことを教えていません。
聖書は肉体を持っている間は罪の性質から解放されることはないと教えています。
しかし、生きている間に罪から解放されること自体は可能なのです。
よくよく考えてみれば明らかであるように、「生きている間に罪から解放された人生を歩まないでどうするんだ!死んでから聖くなって何の意味があるのか?」ということです。
4.聖書が教える道を実践する
それは悔い改め、信仰、自分の意志と生き方を神にささげ、神の意志に従って生きることです。
一つ一つ見ていきましょう。
①悔い改め
悔い改めとは、自分自身が罪に対して無力であるのを認めることです。
自分の力では、どうしても聖い人生を生きることができないと認めることです。
②信仰
信仰とは、聖く生きていけない原因が自分の無力にあると認めたのだから、解決策は無力な自分を超えた大きな力であると信じることです。
③献身と従順
悔い改めとは自分の無力を認めることであり、信仰とは「こんな自分であっても神は救ってくださる」と信じることです。
問題が明らかになり、解決策が明らかになったあとはどうしたら良いでしょうか?
そうです。今度は行動する番です。
なぜなら「行いの伴わない信仰は死んだ信仰」だからです。
行動することによって、私たちの心と生活と人生全体を変える神の力が流れ込んでくるようになります。
5.どのように行動すればよいのか?
それは自分の意志と生き方を神に委ねることです。
今までは、自分の考え通りに生きてきました。
しかし、それでは人生がうまくいきませんでした。
それで今度は自分の意志や生き方を捨てて、神の意志に従う生き方をする決心をしました。
神が願っておられることは何でしょうか?
それは私たちが神を信じることと、心の大掃除をすることです。
このふたつを神は私たちに願っておられます。
特に心の大掃除・人生の棚卸しをしないで、神の力が私たちの人生に流れ込むことはありえないことです。
自分は何もしないで「おっかしいな〜?いつまで経っても神の奇跡が起きない」
起きないわけだよ!寝言は寝ているときに言ってほしいものです(笑)。
いまお話していることに徹底して取り組まれるなら、どなたであっても必ず神の奇跡を体験することができます。
その証人の一人が、ありのパパです。
長い間、苦しみ、どうしても実現できなかった聖い生活は実現可能です。
◎平安と祝福を祈っています。